闇医者グレン 第8回 苛立ち
グレンは下町の診療所に戻ってきていた。
中の様子は、出て行った時のままだ。
……改めて見ると、散らかっている。
大金の入ったケースですら粗雑に置かれる始末。
築40年の古い建物とはいえ、まめに手入れしていれば少しはマシだったろう。
だが、彼にはそういったことをする気力が一切抜け落ちてしまっていた。
「グレン、あなたはお医者様なんだから少しは身の回りに気を使わなくてはダメよ。」
愛用のボロい椅子に座ってくつろいでいると、生前のカタリナが口をすっぱくして言っていたことを思い出した。
バレリーナであった彼女は、人に見られることを常に意識していた。
どんな時でも気高く、美しく、明るいカタリナ。
グレンは自分にない物を持つ彼女に惹かれた。恐らくルーファスもそうだったろう。
……あるいはカタリナが、グレンではなくルーファスを選んでいたらどうだったろうか。
カタリナが《結晶病》になり、足を失うが必ず命の助かる手術と、足は失わないが命を落とすかもしれない手術を選択しなければならなかった、あの状況。
あの時、カタリナは足を失わない手術を願い、グレンはそれを汲む形で手術に挑んだ。
ルーファスであればカタリナが何を言おうと、必ず命の助かる手術を行ったかもしれない。
そうすれば足を失ったとしてもカタリナは助かり、バレエの代わりに何か素敵な夢を見つけて幸せに過ごしたかもしれない。
「もしも」の話に意味がない事はグレン自身が一番分かっていた。
だが、カタリナが命を落として10年間、こういったことを考えない日はなかった。それほどの後悔の念が常に彼の中に渦巻いていた。
――エメリア総合病院から戻ってからというもの、グレンの心は嵐の海のように波立っている。
《結晶病》の患者を見たからか。
患者の少年が捨てられない夢を持っていたからか。
かつての友、ルーファスに再会したからか。
まるで10年前の再現のような状況に出会い、闇医者業に明け暮れて忘れていたことが一気に思い出されたからか。
とにかく、彼は苛立っていた。
グレンは机に向かい、2段目の引き出しを開けた。重い感触を感じて掴んだものを引っ張り出すと、古びた分厚いファイルが姿を現した。
何のタイトルもついていないが、膨大な紙の束が挟まれているところを見ると、1年そこらで纏められたものではないことが分かる。
グレンはしばらく黙ってファイルを見ていたが、唐突にそれを診療所の壁に投げつけた。
ファイルは衝撃に鈍い音をたて、綴じた紙がバラバラになって床一面に散らばった。
……こんなことをしても気分は晴れない。
グレンの心はますます黒く濁った。
「……先生……?」
いつの間にか診療所の玄関に立っている者がいた。
エメリア総合病院の看護師、シェリーが再び訪れていたのだった。
大量の紙が床に散らばっているのをみて驚いている。
「手術の話なら、もうカタがついたはずだ。」
グレンは鬱陶しそうにシェリーを睨む。
暗澹としたものを孕んだ眼に一瞬驚いた彼女だが、すぐに気を取り直し、凛とした表情を作った。
「先生に言い忘れていたことを伝えに来ました。」
「言い忘れていたことだと……?」
訝しげな表情になるグレンに、彼女は、はっきりとした声で答えた。
「……私のシェリーという名は愛称です。本名は……シェリル・フォード。《結晶病》で命を落としたあなたの恋人、カタリナ・フォードの妹です。」