徒然雑記帳

ゲームプレイを中心に綴っていくだけのブログ。他、ゲーム内資料保管庫としてほいほい投げます。極稀に考察とかする…かな?お気軽に読んでいってください。

闇医者グレン

続いてクロスベルの娯楽小説、闇医者グレン。閃の軌跡のあとだと同名のヒューゴの顔がちらつきますが、それはそれとして、元ネタの人物が出てくるならエリオットと絡んでほしいものです。

 

闇医者グレン

 

第1回 闇医者

 

 『美しき北の公国』レミフェリアは、

医療先進国として名を馳せている。

 最新設備の整った病院には優秀な医師が集まり、

優良な医療機器メーカーがしのぎを削っている。

 

 しかし、医療の発達したこの国にも影の部分はある。

 例えばこの「下町」は導力化が後回しにされ、

公都にあるような立派な病院はない。

 北国独特の肌寒さが際立つような寂しい街。

 そこには、診療所がたった1軒のみだ。

 

 築40年の建物は見るからに老朽化しており、

まともな開業医は期待できないように見える。

 ――その屋内に今、2つの人影があった。

 

 「ひゃ、ひゃ、100万ミラだと…!?」

 その一方である老人は、請求書に記された予想を上回るゼロの数を見て素っ頓狂な声を上げた。

 老人に相対するのは、ボサボサの髪の毛に手入れされていない無精ひげを蓄える30代半ばの男。

 筋肉質の巨躯に薄汚れた白衣を着ていなければ、

一目で彼を医師だと気づける人間は少ないだろう。

 「あぁ悪い、ケタが一つ間違ってたようだな。」

 低く通る声で答えた医師は、請求書にもう一つゼロを足した。

 10倍に跳ね上がった数字を再確認して、

老人の顔色は焦りの青から怒りの赤へと変貌する。

 

 「ぼ……暴利だ!

 こんな馬鹿げた治療費、払えるわけがないだろう!」

 それはレミフェリアの法に定められた、

医師が患者に請求できる上限を遥かに超える額だ。

 しかし、怒りをあらわにする老人を見てなお、

医師はにやりと口元をゆがめて笑っていた。

 「あんたが今までたんまり稼いできた汚いミラがあるだろう?」

 この老人は、俗に言う悪徳政治家だ。

 贈収賄や脱税など、数々の黒い噂が絶えない。

 ある日、老人は3発の銃弾を受けてここに運び込まれた。

 恐らく、公にすると政治生命を絶たれるような“何らかのトラブル“に巻き込まれたのだろう。

 だがこの医師は、それらを追求せずに老人の体から弾丸を摘出する手術をした。

 ――要するに、口止め料込みの手術代なのだ。

 「命の代金としちゃ安いもんだと思うがね」

 脅迫ともとれるその言葉に老人は逆上する。

 そして隠し持っていた導力銃を医師に突きつけた。

 医師はそれでも笑みを崩さない。

 

 「……実は、あんたの体にはまだ銃弾が残っている。

 俺を殺せばそいつは取り除けなくなるぜ。」

 そう言って、老人の腹部に人差し指を当てる。

 

 手術痕のない皮膚の下に硬い感触があった。

 医師は、わざと銃弾を摘出せずに残していたのだ。

 老人はその鈍痛に、銃を落としてうずくまる。

 「……で、払うかい?」

 医師は、再手術はサービスしてやると続けた。

 彼を見上げた老人の瞳から怒りの炎が消失する。

 残ったのはただ、医師への恐怖のみだった。

 

 ――診療所の開業医の名は、グレン。

 天才的な外科医術の腕を持ちながら、

 広告に存在するどの病院にも属していない。

 

 

 政治家、密入国者、殺人犯に至るまで、

訳アリの患者の手術ばかりを請け負い、

法外な治療費を請求する“闇医者”だ。

 

 数日後、グレンはボロい椅子に座って、

1000万ミラの納められたケースをつまらなそうに眺めていた。

 

 窓の外を見ると、雨が降っていた。

 北国のレミフェリアでは珍しい、大粒の雨だ。

 この天気じゃ、今日は客は来ないだろう――

 ふと、聞こえていた雨音が急に強くなった。

 「――ごめんください。」

 その声に、グレンは振り向く。

 診療所の玄関に1人の看護師が立っていた。

 

第2回 依頼

 

 「グレン先生はいらっしゃいますか?」

 診療所に現れた看護師が尋ねる。

 活舌のいい喋り方が凛とした雰囲気を感じさせた。

 年齢は20代前半といった所だろうか。

 まだ幼さが残る顔つきだが、かなりの美人だ。

 

 「ああ、そりゃ俺のことだ。」

 グレンはひとまず中に入ってくるよう促す。

 彼女は一度会釈して傘をたたみ、

開け放たれていた玄関扉を閉める。

 この大雨に傘は用をなさなかったらしい。

 濡れた前髪から頬を伝って雨露が滴る。

 彼女の着る白い制服の生地にもそれは染み込み、

その重量を幾分か増しているように見えた。

 

 グレンは大金の入った木箱をぞんざいに部屋の隅に投げ捨てた。

 次に、棚から清潔な白いタオルを取り出してこちらに歩いてくる彼女に放った。

 

 彼女は礼を言って、急いで濡れた髪を拭く。

 その仕草はどこか色香を感じさせる。

 グレンは一瞬、彼女の顔に目を奪われる。

 前に、どこかで会ったか?

 ……などと、思わずベタな口説き文句を吐きそうになってしまう。

 

 一つ咳払いをして気を取り直すと、彼女を手前の椅子に座らせた。

 

 「で、俺に何の用だ?」

 

 「……私の名前はシェリー。

 エメリア総合病院に勤める看護師です。

 今、病院に難病の男の子が入院しています。

 先生にその子の手術を頼みたいんです。」

 

 ――診療所の中に静寂が訪れた。

 返事が返らないことに首をかしげるシェリー。

 グレンはクククと笑い声を漏らしていた。

 そして、最後にそれは大笑いへと変わってしまう。

 

 エメリアという病院には聞き覚えがあった。

 去年、公国を治める大公家が出資して建てた大病院。

 各地から優秀な医者が集められ、

最新の医療設備が整っているという。

 

 病院の名誉を守るため、手に負えない患者の手術を代行させる。

 依頼者のグレンにとって決して珍しい依頼ではなかった。

 ただ、はぐれ者である闇医者に依頼をする病院の医者たちの情けなさに、毎度、彼はこみ上げる笑いを堪え切れずにいた。

 

 「クク……それで?

 お偉いさんはいくら出すって言ってるんだ?」

 ようやく笑いの収まったグレンは、

足元を見てやろうと早速交渉に入る。

 シェリーの顔は真剣そのものだ。

 彼女は決意を込めた声色で言った。

 

 「勘違いされているのかもしれませんが……

 ……これは私個人からの依頼なんです。」

 

 「……どういうことだ?」

 グレンの顔が一転、怪訝なものに変わる。

 シェリーは一度目を逸らしてから、

もう一度搾り出すように言葉を発した。

 

 「患者の男の子は……《結晶病》なんです。」

 病名を聞いて、グレンは目を見開く。

 そして、彼女が自分の元に来た意味を理解した。

 ――《結晶病》。

 それは、グレンにとって特別な名前だった。

 闇医者として生きる彼を形成する根幹といっても過言ではないものだった。

 

 「……患者の元に案内してくれ。

 やるかどうかは診察の後、決める。」

 真に迫るような雰囲気になった彼の声色に、

 シェリーはこくりと頷いた。

 

第3回 患者

 

 いつの間にか雨は上がり、あたりは湿った空気に包まれていた。

 

 「こんな物が出来ていたのか……」

 エメリア総合病院――昨年建造された病棟は

真新しくも威厳を感じさせる立派な建物だった。

 

 さすが、大公家が出資したというだけのことはある。

 「グレン先生、こっちです。」

 思わず呆けてしまっていたグレンを、

シェリーは病院内へと誘導する。

 

 病院の医者ではないグレンに患者を診察させるのはタブーだ。

 できることなら目立ちたくはない。

 だが、白を基調にデザインされた清潔感あふれる病棟内を歩くと、

薄汚れた身なりのグレンはより浮いて見えた。

 

 すれ違う外来患者や病院職員がいちいちこちらを振り向くのを鬱陶しく感じる。

 

 入院病棟に移って更に奥へ進むと、小児病棟に辿り着いた。

 

 303号室と番号を割り振られた個室部屋。

 シェリーが扉を3度ノックして扉を開けると、

白いベッドにパジャマ姿の少年が座っている。

 少年の名はヒューゴといった。

 歳は14といった所であどけない顔つきをしている。

 

 「シェリー姉ちゃん!

 どこ行ってたんだよ~。」

 ごめんね、と謝るシェリーに対してヒューゴは随分なれなれしい態度をとる。

 “生意気”という言葉がピタリとはまる少年だ。

 シェリーがグレンを紹介すると、

彼は人懐こく「よろしくな~」と挨拶してきた。

 グレンは、それを無視して病室を見回す。

 ふと、壁に立てかけられたバイオリンが目に入り、

道すがらシェリーに聞いていた話を思い出す。

 

 ヒューゴは天才少年バイオリニストとしていくつものコンクールで優勝していた。

 つい先月には雑誌などで取り上げられ周囲からの注目が最高潮に達していた時、《結晶病》にかかってしまったという事だった。

 

 グレンは苦虫を嚙み潰したような顔になった。

 少年の両手に厚手の手袋を確認したからだ。

 ――手に症状の出た《結晶病》の患者がそれを隠すためにつけるものだった。

 

 「早速、診察を始めるぞ。」

 言うや否や、グレンはヒューゴに近づき、その右手首を強引に掴み上げた。

 

 「な、なにすんだよ!」

 ヒューゴは激しく抵抗したが、手首から上はピクリとも動かない。

 

 乱暴な「診察」を心配そうに見守るシェリー。

 

 グレンはそのまま、無理矢理手袋を外しにかかる。

 中を見られまいと慌てるヒューゴだったが、大人でも屈強な部類に入るグレンの腕を引き剥がすことはできなかった。

 

 ――露になった手を見てグレンは息を飲んだ。

 

 少年の柔らかい手があるはずのそこには、翠耀石のような結晶が冷たく輝いていたのだ。

 

 そう、これがまさに《結晶病》だった。

 

 

第4回 結晶病

 

 それはよく観察すると、あまりにも生々しい“人間の手”を形作っているのがわかる。まるで精巧な美術品のようだった。

 

 だが、どんなに老練した彫刻家といえど、ここまでの息づきを感じられる作品を作ることはできないだろう。

 

 なぜなら、この美しい翠耀石(エスメラス)のような結晶は、“元は少年の手だったもの”だからだ。

 この病は手、あるいは足の先から突然発症し、徐々に肉体を結晶化し始める。結晶化した部分に痛みはないが、少したりとも動かすことができなくなる。そして1ヶ月前後の時間が経つと、それは心臓に及び、患者は死に至る。

 

 ――これが《結晶病》の症状だ。

 何が原因でこのような病が発生したのか、それは未だに解明されていない。唯一分かっているのは、《結晶病》の死から免れる一つの方法のみだ。

 すなわち、“結晶化した部分を切除する”こと。そうすれば命だけは助かるのだ。

 ……だが、バイオリニストの夢を持つ彼にとって、それはあまりに酷な意味を持っていた。

 症状を目の当たりにしたグレンは呆然としていた。彼の脳裏に過去の記憶が電流のように迸る。

 グレンは過去、医者として《結晶病》に挑んだ。

 そして…… そして……

「――離せっ、バカヤロー!!」

 少年の叫び声で、グレンは我に返った。

ヒューゴは体をくねらせて、ようやく筋肉質の腕を振りほどく。よほど手を見られるのが嫌だったらしく、その後は激しい罵倒の言葉を浴びせ続けた。

「ちくしょう、なんだってんだよっ……!」

ついには涙を流しだした少年をシェリーが慰める。しばらくしてようやく落ち着いた少年は、ふてくされるようにベッドに潜り込んでしまった。

少年を残して病室の外に出る。

二人はしばらく沈黙していたが、やがてグレンがぽつぽつと話し始める。

「……あのガキの結晶化は初期段階だ。すぐに手術をすれば命は助かるだろう。この病院の外科医なら誰にだってできる手術だ。……お前は俺に何をさせようというんだ?」

グレンの声には先程までの覇気がなかった。

「……ヒューゴ君にはバイオリニストになるという夢と、それを叶える充分な才能があります。それはあの子にとって『命』と同等といえるものなんです。グレン先生には…… あの子が手を失わない方法で、結晶病を治して欲しいんです。」

『不可能を可能にしてほしい。』

シェリーの言っていることはそういう類のものだ。

「……医者は神様じゃないんでな。」

グレンに突き放すように言われ、シェリーの顔に落胆の色が浮かぶ。何とか食い下がろうと言葉を探したが、最適なものは見つからなかった。彼もまた、それ以上話そうとはしない。

次の言葉を発したのは……

グレンとシェリー、どちらでもなかった。

 

第5回 ルーファス

「――無理だ、その男には。」

病室前の静かな廊下に、男が現れていた。スラリとした細身の長身に白衣を羽織り、銀縁の眼鏡の奥から鋭い眼差しを向けている。

「先生……!」

看護師であるシェリーはよく知っていた。

彼はこのエメリア総合病院の医師の1人だ。

そして……グレンにとってそれは、10年ぶりの再会だった。

「ルーファス……」

「……お前が病室に来ているとはな……グレン。」

ルーファスと呼ばれた医師は苦々しい顔をして答える。2人が知り合いだと元々知っていたのか、シェリーの顔に困惑はなかった。ただ、険悪な雰囲気の2人を悲しげに見ていた。そんな彼女の方を向いてルーファスはため息をつく。

「闇医者など連れてきて……困ったものだ。病院の名誉に傷がつく。それが分からない君じゃないだろう。」

もとより処罰は覚悟の上で行動していたらしく、シェリーの目に迷いのようなものは見られない。

……何故彼女がそこまで、あの少年に入れ込むのか。グレンも少し気になってはいたが、それを口には出さなかった。

「……先生、『無理だ』とはどういうことですか?」

先程の言葉を確かめるように彼女が尋ねる。

「……簡単なことだよ。そこにいる男は、一度病院を去った。医者であることから逃げ出したんだ。どれだけ腕がよかろうと、《結晶病》という難病に挑めるとは思えない。」

ルーファスの答えに、当のグレンは自嘲気味に笑う。そして、何も言わずに踵を返して歩き出した。

「グレン先生……!」

シェリーは慌ててその後を追っていく。ルーファスはそれをしばらく見送ったが、やがて姿が見えなくなるとつまらなそうに「フン」と呟いた。

そして、先程まで2人がいた303号室の扉に向き直る。小さく咳払いをして、3度のノックをした。

「……ヒューゴ君、診察の時間だ。」

 

――グレンはエメリア総合病院の屋上から公都の町並みを眺めていた。

導力化の進んだ景色は落ち着かない。やはり下町の寂れた雰囲気の方が性に合う。そんなことを考える彼の背に、心配そうな顔で看護師シェリーが立っている。

「……先生……あの……」

「ルーファスは……奴の仕事ぶりはどうだ?」

グレンはシェリーの言葉を遮るように尋ねた。

彼女は他に言葉を見つけられず、グレンの問いに淡々と答えるしかなかった。

「……ルーファス先生はこの病院の設立時にスカウトされて、今まで多くの患者を救っています。素晴らしい論文もいくつも発表していて……。34歳という若さで、次期教授に就任するとの噂もあるくらいです。」

「……凡人は凡人なりによくやってるようだな。」

憎まれ口を叩くグレンの顔はどこか満足そうだった。

奴ならあの小僧の命も助けてくれるだろう。

そう続けるグレンに、シェリーは反論する。

「でも、ルーファス先生は……。ヒューゴ君の手にメスを入れるつもりです。」

「命が助かるならそうするべきだろう。」

廊下で行っていた議論はやはりそこに帰結した。しかし、シェリーは納得できなかった。

「グレン先生……あなたは10年前、《結晶病》を治す新しい術式を作りました。だからこそ私は……先生に賭けたいんです。」

グレンはそれを聞くと少し驚いた様子だった。

結晶化した患部を切除することなく《結晶病》を完治できる画期的な術式。

まさに不可能を可能にするそれを、グレンは10年前の時点で発見していた。

確かにその術式が成功すれば、ヒューゴの命と夢の両方を救うことができる。このシェリーという看護師は、かなり熱心に自分を調べていたらしい。

だが……グレンにとってそれは、心の傷痕を抉り出すものでしかなかった。

「……知っているだろう。あの術式が失敗だったことを。」

シェリーは無言で目を伏せる。

それは肯定の意味を持っていた。

「そして、そのせいで…… 1人の患者が命を落としていることを。」

グレンは10年前の出来事を思い出し、懺悔するように言葉を紡ぎだした。

 

第6回 カタリナ

10年前、グレンはルーファスと共にレミフェリア公国内のある病院に勤めていた。

手術の才に恵まれた2人は、若手医師の中でも期待の星だった。

ある日2人は、接待で連れていかれた小劇場で、公国に伝わる伝統舞踊『バレエ』を見て、舞台の上の一人の踊り手に心を奪われた。

彼女の名前はカタリナ・フォードと言った。

2人は柄にもなく劇場に通いつめ、縁あって交遊関係を持つようになると、明るくも気高い彼女に徐々に惹かれていった。

彼女の歳の離れた妹もよくなついてくれた。

やがてグレンとカタリナは恋人同士となり、友であり好敵手だったルーファスも、それを心から祝福した。

しかし、幸福な日々は長くは続かなかった。

ある日、カタリナは難病にかかり、グレンとルーファスが勤める病院に入院する。

病名は……《結晶病》。

バレリーナの命ともいえる彼女の足は、くるぶしまで翠耀石のような結晶と化していた。

「あは……綺麗なものね……」

それは明るい性格の彼女らしい強がりだった。

担当医に選ばれたグレンとルーファスは苦悩した。

カタリナの命を助けるためには結晶化した部分を早急に切除するしかない。

しかしバレエに情熱を燃やすカタリナの足にメスを入れることなどできなかった。

2人は死に物狂いで新しい術式を探した。

カタリナの命と足、両方を救う奇跡の方法を。

過去の症例を漁り彼女の体を何度も検査する。

そんな日が続く中、グレンはある事実を発見する。

《結晶病》にかかった患者の心臓には、共通して小さな"腫瘍"が確認されたのだ。

この腫瘍が毒素を血液に混入させ、それが体内に蓄積していくことで結晶化が進行する。

手術で腫瘍を取り除くことができれば、徐々に症状は回復に向かうだろう。

新しい術式の発見に一時周囲は沸いたが、2人は手放しで喜べないでいた。

心臓にできた腫瘍の切除は、危険すぎる。

それは医療先進国であるこの国でも難しい手術だ。

失敗すれば、それは"死"に直結してしまう。

だが、これ以上手術を遅らせることはできない。

カタリナの結晶化は今なお進行し続けているのだ。

ーー決断の時が迫っていた。

「……結晶化した患部を切除するしかない。命とバレエを天秤にかけるなんて馬鹿げてる。」

導き出したルーファスの結論に、グレンも同意した。

恋人がバレエを失ったとしても、生きていればきっと新しい夢が見つかるはずだ。

しかし、カタリナの答えは違った。

「バレエは私の命なの。足を失うことは、命を失うことなのよ。」

少しでも可能性があるのならそれに賭けてほしい。

カタリナは恋人グレンにそう頼んだのだった。

手術の日が刻一刻と迫る中、グレンは葛藤した。この選択が彼女の生死を分けるかもしれない。

考え、悩み、苦しみ抜いた。

そして……結局は彼女の意思を汲む形になった。

ルーファスは激しく反対したが、

「必ずカタリナを助ける」というグレンの眼を見て、もはや止められないことを悟った。

数日後、執刀医グレンによる手術の日が来た。付き添いの妹が心配そうに見守る中、カタリナが手術室に運ばれていく。

「……信じてる、グレン。」

カタリナはグレンのごつごつした手を握ると、そのまま麻酔による深い眠りについた。

「ーーそして彼女は二度と目覚めなかった。」

グレンの話を引き継いだのは、屋上に上がってきたルーファスだった。

「グレンはその後、すぐに病院を去った。カタリナの死から逃げ、闇医者などというヤクザ者に身を落としたんだ。」

シェリーは、ハッとしてグレンを見た。

「……何の用だ?」

グレンは街並みを眺めたまま振り返らない。

ルーファスは瞑目し次の言葉を紡いだ。

「ヒューゴ君の手術の期日が決定した。……1週間後だ。」

 

第7回 衝突

 

手術の期日を告げたルーファスに、シェリーは慌てて反論する。

「ま、待ってください、ルーファス先生!

いくらなんでも急すぎます!」

「《結晶病》の症状は待ってはくれない。

手術するなら早いほうがいい。」

屋上からの景色を眺めたままのグレンはそれに何の反応も示さない。

ただ黙って聞いているだけだ。

「さっきヒューゴ君と相談して決めたことだ。看護師の君にとやかく言う権利はない。」

ルーファスに冷淡とも言える口調で制されて、シェリーは口をつぐむ。

彼の言う事は正しかった。

大人に比べて、14歳のヒューゴの体は小さい。

《結晶病》が心臓に達して命を奪うまでの時間もその分短い。

早急に手術を進めるのは医者として当然の判断だ。

――それでもシェリーには納得がいかなかった。

「先生は……ヒューゴ君が手を失うことについてなんとも思わないんですか!?」

「……命を助けるのが最優先だ。死んでしまえば夢を追うこともできまい。」

ルーファスは即答してみせる。

これはカタリナを失ったことで形成された、医師として譲れない信念だった。

シェリーはその言葉に落胆の色を隠せない。

「……私は必ず、あの子を助ける。」

ルーファスはシェリーの扉の向こうに見える、背を向けたままの巨躯の医師に言い放った。

「……断る手間が省けたぜ。せいぜい頑張りな、ルーファス先生よ。」

グレンはそれだけ言って後ろ向きに手を振ると、結局一度も視線を交わさないままその場を後にした。

「……情けない男だ。」

ルーファスはそう呟くと、シェリーに仕事に戻るよう促した。

病院に内緒で闇医者を呼んだ事に関しては今回だけは見逃すという。

彼女は肩を落とし、俯いたまま聞いていた。それは何かを考えているようにも見えた。

「もう、奴とは関わるな。……君にとっても辛いだけだろう。」

シェリーはその言葉に途端に顔を上げると、大きく首を振ってそれを否定した。

そして、ルーファスの眼を見つめて言う。

「ルーファス先生、ごめんなさい。私、グレン先生に言い損ねたことがあるんです。」

「……何?」

シェリーはルーファスの問いに答えることもせず、急いでその場を去っていった。

屋上に1人残されたルーファス。

吹き抜ける風が彼の白衣をなびかせると、彼は額に手を添えて大きなため息をついた。

「……やれやれだ。」

 

第8回 苛立ち

 

グレンは下町の診療所に戻ってきていた。

中の様子は、出て行った時のままだ。

……改めて見ると、散らかっている。

大金の入ったケースですら粗雑に置かれる始末。

築40年の古い建物とはいえ、まめに手入れしていれば少しはマシだったろう。

だが、彼にはそういったことをする気力が一切抜け落ちてしまっていた。

「グレン、あなたはお医者様なんだから少しは身の回りに気を使わなくてはダメよ。」

愛用のボロい椅子に座ってくつろいでいると、生前のカタリナが口をすっぱくして言っていたことを思い出した。

バレリーナであった彼女は、人に見られることを常に意識していた。

どんな時でも気高く、美しく、明るいカタリナ。

グレンは自分にない物を持つ彼女に惹かれた。恐らくルーファスもそうだったろう。

……あるいはカタリナが、グレンではなくルーファスを選んでいたらどうだったろうか。

カタリナが《結晶病》になり、足を失うが必ず命の助かる手術と、足は失わないが命を落とすかもしれない手術を選択しなければならなかった、あの状況。

あの時、カタリナは足を失わない手術を願い、グレンはそれを汲む形で手術に挑んだ。

ルーファスであればカタリナが何を言おうと、必ず命の助かる手術を行ったかもしれない。

そうすれば足を失ったとしてもカタリナは助かり、バレエの代わりに何か素敵な夢を見つけて幸せに過ごしたかもしれない。

「もしも」の話に意味がない事はグレン自身が一番分かっていた。

だが、カタリナが命を落として10年間、こういったことを考えない日はなかった。それほどの後悔の念が常に彼の中に渦巻いていた。

――エメリア総合病院から戻ってからというもの、グレンの心は嵐の海のように波立っている。

 

《結晶病》の患者を見たからか。

 

患者の少年が捨てられない夢を持っていたからか。

 

かつての友、ルーファスに再会したからか。

 

まるで10年前の再現のような状況に出会い、闇医者業に明け暮れて忘れていたことが一気に思い出されたからか。

 

とにかく、彼は苛立っていた。

グレンは机に向かい、2段目の引き出しを開けた。重い感触を感じて掴んだものを引っ張り出すと、古びた分厚いファイルが姿を現した。

何のタイトルもついていないが、膨大な紙の束が挟まれているところを見ると、1年そこらで纏められたものではないことが分かる。

グレンはしばらく黙ってファイルを見ていたが、唐突にそれを診療所の壁に投げつけた。

ファイルは衝撃に鈍い音をたて、綴じた紙がバラバラになって床一面に散らばった。

……こんなことをしても気分は晴れない。

グレンの心はますます黒く濁った。

「……先生……?」

いつの間にか診療所の玄関に立っている者がいた。

エメリア総合病院の看護師、シェリーが再び訪れていたのだった。

大量の紙が床に散らばっているのをみて驚いている。

「手術の話なら、もうカタがついたはずだ。」

グレンは鬱陶しそうにシェリーを睨む。

暗澹としたものを孕んだ眼に一瞬驚いた彼女だが、すぐに気を取り直し、凛とした表情を作った。

「先生に言い忘れていたことを伝えに来ました。」

「言い忘れていたことだと……?」

訝しげな表情になるグレンに、彼女は、はっきりとした声で答えた。

「……私のシェリーという名は愛称です。本名は……シェリル・フォード。《結晶病》で命を落としたあなたの恋人、カタリナ・フォードの妹です。」

 

第9回 シェリ

「お前が……カタリナの妹だと!?」

驚愕するグレンにシェリーはコクリとうなずく。その眼は真っ直ぐにグレンを捉え、とても嘘を言っているようには見えない。

 

カタリナと歳の離れた妹、シェリル。

何度か会ったこともある。

カタリナの入院時にはよく見舞いに来ていたし、手術室の直前まで付き添っていたのを思い出す。

改めて目の前にいるシェリーを見なおすと、確かに面影がある気がした。

凛とした表情がよく似ている。そんな事に気づかないほど、人との関わりを雑にしてきた自分を恥じる。

――すると、シェリーが話し始めた。

「姉さんが命を落とした、《結晶病》を治す新しい術式…… 死の危険性すらある手術を、なぜ姉さんが受けるつもりになったか。グレン先生は考えたことがありますか?」

「……再びバレリーナとして舞台に立つためだ。」

当然のようにグレンは答えたが、それをシェリーは首を振って否定する。

「それだけじゃないんです。先生が新しい術式を見つけた日の夜、姉さんはそれを『試したい』と言いました。私は反対していました。とても危険な手術と聞いていたから…… バレエなんか諦めてほしいと言いました。だけど、姉さんは迷いのない顔でこう言うんです。」

シェリーは眼を瞑り、胸に手を当てる。

亡き姉が昔、病床で語ったことを思い出していた。

『――私が手術を受けたいと思うのは、バレエのためだけじゃないの。……この《結晶病》という病気は、とても恐ろしい病気よ。私も強がっていたけど、助かるために足を失うしかないと言われて、絶望したわ。だけどグレンが新しい術式を見つけてくれて、心の中に暖かい光が差すのを感じたの。多分、これが希望っていうものなのね。この術式が広まれば、他の《結晶病》の患者にとっても大きな希望になると思うわ。でも、まだこの術式は命の危険が伴うような不完全なもの…… だからまず、私で試して欲しいの。成功するにしろ、失敗するにしろ、きっとグレンなら何かを掴んで、より完璧に近いものにしてくれる。将来、きっと《結晶病》なんて怖くない病気にしてくれる。私の愛するグレンなら、きっとやってくれる――』

――姉の想いを告げるシェリーに、グレンはカタリナの姿が重なるのを感じた。

「……姉さんが死んでしまったのは確かに悲しかったけど……姉さんを助けようとするグレン先生とルーファス先生の姿は私の目に今も焼きついています。私が看護師を目指そうと思ったのも、お2人への尊敬があったからです。だから先生、後悔なんてしないでください――」

シェリーは長い話を終えると、深々と頭を下げた。そしてしばらくの静寂のあと顔を上げると、静かに診療所を後にした。

グレンは椅子に座ったまま黙り込んで、シェリーがいた一点を何時間も見つめ続けた。

さっきまでの苛立ちは嘘の様に消えていた。

10年前のカタリナの想いを知った。

カタリナの妹・シェリーは「後悔するな」と言った。

ならば、自分は彼女たちにどう応える?

 

――翌朝、グレンは床に散らばった古びたファイルの中身を拾っていた。

彼の瞳には、確かに決意の色が映っていた。

 

第10回 希望

 

ヒューゴの手術が3日後に迫った日の夕方。

手術の期日が決まってから、彼の病室には毎日のように担当医のルーファスがやってきていた。来たる手術について、少年に説明するためだ。

「……ヒューゴ君、聞いているかね。」

ルーファスが神経質そうな声で尋ねる。

ヒューゴは手術が決まってからどこか上の空で、ときどきこうして話を聞いていないことがあった。

理由は明白だ。

手術後にバイオリンを弾けなくなるという事実に未来に希望を持てないでいるのだった。

助手の形でルーファスに付き添うシェリーはやりきれない気持ちだった。

「やっぱり、イヤだよ。」

自分の厚手の手袋を恨めしそうに眺めていたヒューゴが言った。

「なんで俺だけがこんな思いをしなくちゃならないんだよ!」

行き場のない怒りを放出するその姿に、シェリーは胸を痛めた。

「ヒューゴ君、元気を出して。」

そんな言葉をかけても意味がないことは、同じ病で姉を亡くした彼女が一番分かっていた。

だが、医師ルーファスはあくまで冷静に対応した。

「……私は今まで沢山の患者を見てきた。中には何の希望も与えられず、無下に命を落とした人々もいる。そんな中、君の場合は手術を受けさえすれば必ず生き延びることができる。それは……幸運なことじゃないかね?」

この説得には何の反論の余地もなかった。

ヒューゴは無理矢理納得させられて歯噛みしたが、やがて諦めたように落ち着いた。

これでいい、とルーファスは思っていた。

生きてさえいれば、数えきれないほどの可能性がある。

夢など、また探せばいい。

命を落としたカタリナは、それすらできなかったのだから。

「――お前らしいな」

よく通る低音の声と共に、病室の扉が開かれた。現れたのはーー闇医者、グレン。

「グレン先生っ!」

来てくれた――シェリーは心の中で喜んだ。

グレンはそんな彼女にニヤリと笑みを見せる。

「……何をしに来た。」

ルーファスの眼鏡の奥の双眸は、現れた闇医者の姿を睨みつける。

グレンはその問いには答えず、代わりに視線を弾き返すように睨み返した。捨て台詞を吐いて病院の屋上を去った時と明らかに違う雰囲気に、ルーファスは眉をひそめる。

次にグレンは、ベッドにいるヒューゴを見た。

以前狼藉を働いたグレンの姿に一瞬嫌な顔をしたが、それもどうでもいいという諦めの表情になる。

「ヒューゴとか言ったな。……お前に、死ぬ覚悟はあるか?」

グレンが唐突に発した言葉に誰もが驚く。

「お前の《結晶病》…… 腕を失わずに治せる方法がある。ただし、それに挑むには死ぬ覚悟が必要だ。根性論なんかじゃない。本当の意味で、死のリスクを負う覚悟だ。……お前に、それはあるか?」

まくし立てられた言葉の一つ一つが、弱冠14歳のヒューゴの心にのしかかる。

彼の鋭い眼光には一切の容赦が感じられない。"死"という言葉の重みは本物だ。

――"死"。

その覚悟があれば、ヒューゴの腕は……バイオリニストの夢は、失くならずに済むかもしれない。

ヒューゴはそう考えると、感極まって涙をこぼした。

生きるためだと押さえつけていた、胸の中のものが溢れ出す。

「……俺……俺……! この腕のためなら死んだって構わない……!」

少年の心には、確かな希望の光が差していた。

 

第11回 覚悟

 

「……ヒューゴ君、考え直したほうがいい。」

すぐさま反論したのは、そばにいたルーファスだ。彼は、グレンを強く睨みつけた。

「『腕を失わずに治せる方法』とは…… カタリナに施した術式だな?あれが失敗だったことを誰より分かっているのはお前のはずだ。」

怒気が孕むその声に、ヒューゴは怯んでしまう。

グレンは黙ったまま、おもむろに分厚いファイルを取り出した。

「……こいつは俺が闇医者になってから10年かけて研究してきたものだ。」

そう言ってルーファスにファイルを投げ渡す。

彼は重量感のあるそれを受け取って驚愕した。

そこには、《結晶病》に関する、膨大な研究データが記されていたのだった。

患者のカルテ、症例、行われた処置の報告書…… 明らかに違法な手段で入手したと分かるものもある。

そして最後の頁には……

ルーファスの知るものとは違う、《結晶病》の新しい術式が載っていた。

「あの時、カタリナの手術をして……そのおかげで出来たものだ。」

グレンは多くを語らなかったが、闇医者として道を外れながらも、長い間《結晶病》と戦い続けていたのは明白だった。

闇医者として多くを患者を扱い、数々の手術を行ったことで完成に至ったのだ。

『私の愛するグレンなら、きっとやってくれるーー』

姉の言葉が間違いではなかった事を知り、不意にシェリーの瞳から涙がこぼれた。

「……確かに、この術式なら患者の命を守れる可能性は高いだろう。」

一通りファイルを読んだルーファスは、グレンの術式に手応えを感じていた。

その言葉に、ヒューゴも喜びの表情を見せる。

「それでも、私はお前に患者を渡すわけにはいかない。」

「ど、どうしてですか!?」

シェリーが困惑してその意味を尋ねると、彼は今一度無言のままグレンを睨みつけた。

「私は以前……シェリー君からカタリナがこの術式の糧となるべく危険な手術に臨んだことを聞いた。だが、当のお前はカタリナの死に耐えられず、病院から逃げてしまった。命すら差し出したカタリナの覚悟に対して、お前にはまるで覚悟ができていなかったんだ。……そんなお前に手術を任せることはできん。」

グレンは瞑目してその言葉を噛み締める。それは痛いほどに的を射ていた。

「ああ、確かにその通りだ。俺には医者として最低限の覚悟がなかった。結果、闇医者なんかに身を落とした。……だがな、闇医者をやってたおかげで学んだこともある。」

言うや否や、グレンは勢いよく己の腰に手をやる。

隠していたものの硬い感触を確かめ、それを引き抜いてルーファスの鼻先に突きつけた。

――ラインフォルト社製の導力銃が病室に差し込む夕日を鈍く反射していた。

一瞬で場の空気が凍りつく。

「……脅迫でもするつもりか。」

殺気を放つそれを見て、ルーファスも動揺を隠せなかった。

グレンはニヤリと口元を歪め、引鉄に指をかける。

――次の瞬間、グリップがクルリと反転した。銃口の向きとともに、立場が逆転した形になる。

「……患者に死のリスクを負わせる以上、医師である俺も相応のリスクを負う。もし手術が失敗したら、こいつで俺を殺せ。」

グレンの言葉には真に迫るものがあった。

それは、闇医者として裏社会で生きた彼ならではの『覚悟』だった。

――重苦しい静寂が訪れる。

誰もがルーファスの答えを待っていた。

彼は、眼鏡の奥の双眸を静かに閉じ……

そして、差し出された銃のグリップを握った。

「……いいだろう、グレン。お前の覚悟……本物のようだ。その術式がヒューゴ君の"命"を救うというなら……俺もそれに賭けよう。」

 

第12回 手術

 

ルーファスはすぐに、病院内にある会議室に3日後のヒューゴの手術に臨む医師たちを集めた。

名目は、より効果の高い術式への変更。

グレンは術式の発案者として紹介された。

医師たちは当初、それを冷ややかに受け入れた。下町で闇医者を営む男、グレン……

腕は信用できるのか?

悪名高い彼を知るものは少なくなかったのだ。

しかし、ルーファスの熱心な推薦と、グレンの語る高度な術式の説明を聞くにつれ、次第に反発するものはいなくなっていった。

そして手術までの期日、グレンとルーファスは術式をより確実なものとするために協議を繰り返したのだった。

また、看護師シェリーによってヒューゴのカウンセリングも続けられた。腕を失うと決まっていた時とは違って、少年の目は生き生きとしていた。

そして――ついに手術の日が訪れる。

ヒューゴの両親は仕事の忙しさのため今まで中々見舞いに来れなかったのだが、手術当日は息子を見送るために時間を作った。

「……行ってくるよ。」

これが最後の言葉になるかもしれない。

その状況で、彼は心配する両親に笑ってみせた。

2人の優秀な医師の存在が、手術への揺るぎない覚悟を与えていた。

医師たちはヒューゴを連れ、手術室へ。

消毒を行い、手術器具や最新の医療機器の準備も整った。

麻酔によって深い眠りにつくヒューゴの前に執刀医グレンが立つ。

ルーファス率いる他の医師たちもそれぞれの配置についた。

グレンは汚れた身なりを整え、手術用の薄青色の着衣を着ていた。ボサボサの髪をオールバックにまとめた姿は気品すら感じさせるものだった。

看護師シェリーも医師に混じって、グレン、ルーファスの助手を務めていた。シェリーはグレンに目配せを送り、彼はそれにコクリとうなずいた。

「それでは……手術を始める。」

グレンの手にメスが手渡され、いよいよ手術が開始された。

少年の白い腕には切開するルートが記されている。その上を慣れた手つきでメスが滑ると、その内側が露になる。

――人間がこの地に生まれてから長い間、人の体は徐々に進化し、最適化されてきた。

そしていつしか、導力器の歯車のように合理的に組み合う、素晴らしい機能美を持った。

だがそれは病気や怪我によって脆く壊れてしまう。それらに抗い、この芸術的な人間の肉体を、生命を守るのが医師の仕事なのだ。

グレンは手術に臨むたびにこの誇り高い仕事をしていることを喜び、才を与えてくれた女神に感謝していた。

彼の鮮やかなメスさばきで手術はスムーズに進行していく。

時々グレンの顔の汗を拭くシェリーも、執刀を補佐するルーファスも、麻酔や最新の機器を預かる医師たちも、グレンの極めて優秀な手術の腕に感嘆していた。それはまさに芸術といって過言はなかった。

そして、ついに少年の心臓が姿を見せる。

ここまで長い時間が経過していたはずだが、参加していた全員があっという間に感じていた。健康的に活動をするそれの表面には禍々しく黒ずんだものが張り付いていた。

……これが《結晶病》の腫瘍だ。

過去に恋人・カタリナの命を奪った元凶。

それをメスの射程距離に捉えた。

「あと少し……がんばって、ヒューゴ君!」

シェリーが眠る少年に声をかける。

――その瞬間、グレンの手が止まった。

 

 

第13回 祈り

 

「……おい、どうした?」

たまらずルーファスは声をかけた。

「グレン先生……?」

シェリーもその様子を心配そうに見つめている。他の医師たちにも、何が起こったのか理解できない。

グレンは、脈打つ心臓を視界に捉えた瞬間――

カタリナの手術を思い出していたのだった。

10年前の、カタリナの手術――

実は、それは一度成功したかに思われていた。

当時から心臓の手術は常に大きな危険のつきまとうものだったが、天才的な腕を持っていたグレンは《結晶病》の腫瘍を何とか剥がすことに成功した。美しい色を取り戻した彼女の心臓を見て、その場にいた誰もが手術の成功を信じた。

しかし……それは甘い認識だった。

腫瘍は心臓の組織と少なからず結び付いていたのだ。その切除は、心臓そのものの強度を劣化させた。

結果、グレンが閉胸を行っている最中に心臓の一部が裂け、大量の出血を引き起こし――

カタリナは帰らぬ人となった。

心臓の腫瘍を前にその時の恐怖が蘇り、グレンの体は完全に硬直してしまった。

頭の中が真っ白になり、今やっている術式の手術の手順が飛んでしまう。

「――グレン!!」

そんな状態のグレンを引き戻したのは、かつての友の力強い呼び声だった。

気づくと、補佐をしていたルーファスが、グレンの厚い胸倉を掴んでいた。

「手術中に余計な事を考えるな。今はヒューゴ君の手術に集中しろ。この子は……お前を信じているんだ。」

グレンはその言葉にハッとして、その眠る少年の姿を見返した。

どくん、どくん、どくん、どくん……

心臓がグレンを呼ぶように活動を続けている。

(ああ、そうだ……呆けている場合じゃねぇ。)

グレンは気を取り直して再びヒューゴに向いた。

ルーファスはそれを見て、掴んでいた腕を離すと無言で手術の続行を促した。

シェリーは、ほっと胸を撫で下ろす。

グレンの向かい側にルーファスが立つ。

新しい術式は、ここからが本番だ。

――この腫瘍にはある秘密があった。

腫瘍の中心部の毒を排出する部分以外は……全くと言っていいほど無害なのだ。

腫瘍は時間をかけて心臓と融合していき、最後にはほとんど心臓の組織と同じものになる。

つまり、中心部さえ取り除いてしまえば完全に切除する必要はなかったのだ。

カタリナの手術が失敗した理由はまさにそれだった。研究して突き止めた事実を反芻するたびに、彼の心をとても大きな後悔が蝕んだ。

だが……

あの時シェリーに告げられた言葉が、グレンの後悔を「感謝」へと変えさせた。

カタリナの死があったからこそこの新しい術式があるとグレンは思い直したのだ。

人工心肺を繋ぎ、さらに心臓の活動を一時的に止める薬品を注入する。

これらは、最先端の医療機器メーカーが開発した試作品をルーファスが特別に取り寄せたものだ。

彼は静かになった心臓を支え、見やすく調節する。

――実際に腫瘍の中央部のみを取り除くには極めて微妙なメスさばきが必要だ。

一歩間違えれば心臓を傷つけてしまう。だが、成功すればカタリナの時のように心臓の強度を落とすことなく病巣を取り除ける。

(姉さん、グレン先生に力を貸して――)

グレンの持つメスが徐々にどす黒い腫瘍に近づいていく。

シェリーが、ルーファスが、他の医師たちが、その切っ先を固唾を飲んで見守っていた。

――手術室の外では、ヒューゴの両親も女神に祈り続けていた。手術開始から相当な時間が経ち、彼らの疲労もピークに達していた。

その時、不意に手術中を示すランプが消える。

最初に中から現れたのは……グレン。

ヒューゴの両親は、すがる様にその巨躯の元に駆け寄った。

グレンが彼らに向いてマスクを外す。

現れた口元には、力強い笑みが浮かんでいた。

 

最終話 グレン

 

1ヶ月後ーー

エメリア病院の小児病棟の個室で、バイオリンを弾くヒューゴの姿があった。

彼の両手は同じ年代の子供と同様の、柔らかく暖かな肌色を取り戻していた。もう、翠色の妖しい輝きは微塵も残っていない。

しかし、結晶化していた指先の感覚はまだ鈍く、どこかおぼつかない様子だった。

見舞いに来ていた両親に以前のような音色を聞かせようとしたが、バイオリンは残念な金切り音を鳴らした。両親は苦笑いを浮かべて励ましたが、ヒューゴは全く気にしていない様子だ。

「天才は初心も忘れないようにしないとね。」

そう生意気を吐いて両親を笑わせた。

また、バイオリンを弾くことができる。彼にはそれが嬉しくてたまらなかった。

再び病室に奇天烈な音色を奏でると、ヒューゴと両親は可笑しくなって笑い出した。

――病院の屋上にいたグレンの元までその小さな演奏会の音は届いていた。

ヒューゴの術後の経過を見るために、彼は病院に通っていた。

そして、一通り診察が終わると屋上で佇み、柵に寄りかかって公都の街並みを眺めた。

彼の後ろにはルーファスとシェリーが立っている。

「……聞いているのか、グレン。」

ルーファスは神経質そうな声でグレンを咎める。彼はグレンを勧誘していた。この病棟に来る気はないか――と。

それは、彼の手術の腕を支えた病院の医師たちからの強い要望だった。グレンほどの腕を持つ医師を闇医者として埋もれさせるなどあまりに惜しいと考えたのだ。

「《結晶病》の新しい術式を作ったお前なら、表の世界に名を残すこともできるだろう。まっとうな、1人の医者として。」

しかし、グレンの答えはあくまでもノーだ。

「俺を頼って下町に来る連中も少なくない。今さら診療所を離れるつもりはないさ。……1人の闇医者として、な。」

そう言って、ニヤリと笑ってみせるグレン。

「……そうか、残念だ。」

ルーファスもまた、薄く微笑を浮かべて答えた。ふと、隣にいたシェリーが時計を確認する。

「あ、先生……そろそろ回診のお時間では?」

彼は頷くと、もう一度グレンの方を向いた。

「せいぜい"闇医者"を貫いて見せるんだな。お前の選んだ道が間違いでなかった……そうカタリナに胸を張れるように。」

そう言い捨て、ルーファスはその場を後にした。グレンはかつての友の手厳しい激励に、「言われなくても」と小さく呟いた。

そして、その場には彼とシェリーが残された。

……無言が続いた。

未だ聞こえてくるバイオリンの音がそれを強調する。グレンは背中に注ぐ視線にいたたまれなくなり、さっさと病院を出ていこうと歩き出す。

シェリーは「あの」と、それを呼び止めた。

「グレン先生、今回のこと……本当にありがとうございました。姉が先生を選んだ理由……ようやく、分かった気がします。」

急に改まって礼を言われ、背を向けたままのグレンは気恥ずかしさを覚える。

「……義理に感じることはないだろう。俺も、お前のおかげでカタリナのことに整理がつけられた。……まぁ一応、礼を言っておくぜ。」

今までふてぶてしかったグレンに初めて殊勝な態度をとられ、シェリーは少しばかり戸惑った。

「そういえば先生……手術代を受け取らなかったそうですね。」

今回、グレンには病院から報酬が出ていた。法に定められた上限があるとはいえ、一般常識で考えればかなり高額なミラだ。だがグレンはそれすら断り、ヒューゴの術後費用に回すよう言ったという。

「……あんなはした金、頂く気にならなくてな。」

グレンは面倒くさそうに頭を掻いて答える。

「ま、あのガキがプロになったら演奏会をタダで聴かせてもらうとするさ。」

悪名高い闇医者とは思えない台詞を聞いて、シェリーは微笑を浮かべ……ある事を思いつく。

「……先生、覚えてます?私は最初、今回の依頼を『個人的な依頼』って言いました。だから、私が報酬を払ってもいいですよ。……個人的に。」

「なっ……!?」

グレンが慌てふためいて振り向くと、そこにはシェリーの悪戯な笑みがあった。

グレンはバツが悪そうな顔をして向きを戻し、そのまま病院を去っていった。

――屋上に1人残されたシェリーの心の中は晴れやかな気分に満ちていた。ついさっきまでグレンがしていたように、彼女は柵にもたれかかって青い空を仰ぎ見る。

「……素敵な人よね、姉さん。」

聞こえてくるバイオリンの音に混じって、カタリナの笑い声が聞こえた気がした。

〈END〉