闇医者グレン 最終話 グレン
1ヶ月後ーー
エメリア病院の小児病棟の個室で、バイオリンを弾くヒューゴの姿があった。
彼の両手は同じ年代の子供と同様の、柔らかく暖かな肌色を取り戻していた。もう、翠色の妖しい輝きは微塵も残っていない。
しかし、結晶化していた指先の感覚はまだ鈍く、どこかおぼつかない様子だった。
見舞いに来ていた両親に以前のような音色を聞かせようとしたが、バイオリンは残念な金切り音を鳴らした。両親は苦笑いを浮かべて励ましたが、ヒューゴは全く気にしていない様子だ。
「天才は初心も忘れないようにしないとね。」
そう生意気を吐いて両親を笑わせた。
また、バイオリンを弾くことができる。彼にはそれが嬉しくてたまらなかった。
再び病室に奇天烈な音色を奏でると、ヒューゴと両親は可笑しくなって笑い出した。
――病院の屋上にいたグレンの元までその小さな演奏会の音は届いていた。
ヒューゴの術後の経過を見るために、彼は病院に通っていた。
そして、一通り診察が終わると屋上で佇み、柵に寄りかかって公都の街並みを眺めた。
彼の後ろにはルーファスとシェリーが立っている。
「……聞いているのか、グレン。」
ルーファスは神経質そうな声でグレンを咎める。彼はグレンを勧誘していた。この病棟に来る気はないか――と。
それは、彼の手術の腕を支えた病院の医師たちからの強い要望だった。グレンほどの腕を持つ医師を闇医者として埋もれさせるなどあまりに惜しいと考えたのだ。
「《結晶病》の新しい術式を作ったお前なら、表の世界に名を残すこともできるだろう。まっとうな、1人の医者として。」
しかし、グレンの答えはあくまでもノーだ。
「俺を頼って下町に来る連中も少なくない。今さら診療所を離れるつもりはないさ。……1人の闇医者として、な。」
そう言って、ニヤリと笑ってみせるグレン。
「……そうか、残念だ。」
ルーファスもまた、薄く微笑を浮かべて答えた。ふと、隣にいたシェリーが時計を確認する。
「あ、先生……そろそろ回診のお時間では?」
彼は頷くと、もう一度グレンの方を向いた。
「せいぜい"闇医者"を貫いて見せるんだな。お前の選んだ道が間違いでなかった……そうカタリナに胸を張れるように。」
そう言い捨て、ルーファスはその場を後にした。グレンはかつての友の手厳しい激励に、「言われなくても」と小さく呟いた。
そして、その場には彼とシェリーが残された。
……無言が続いた。
未だ聞こえてくるバイオリンの音がそれを強調する。グレンは背中に注ぐ視線にいたたまれなくなり、さっさと病院を出ていこうと歩き出す。
シェリーは「あの」と、それを呼び止めた。
「グレン先生、今回のこと……本当にありがとうございました。姉が先生を選んだ理由……ようやく、分かった気がします。」
急に改まって礼を言われ、背を向けたままのグレンは気恥ずかしさを覚える。
「……義理に感じることはないだろう。俺も、お前のおかげでカタリナのことに整理がつけられた。……まぁ一応、礼を言っておくぜ。」
今までふてぶてしかったグレンに初めて殊勝な態度をとられ、シェリーは少しばかり戸惑った。
「そういえば先生……手術代を受け取らなかったそうですね。」
今回、グレンには病院から報酬が出ていた。法に定められた上限があるとはいえ、一般常識で考えればかなり高額なミラだ。だがグレンはそれすら断り、ヒューゴの術後費用に回すよう言ったという。
「……あんなはした金、頂く気にならなくてな。」
グレンは面倒くさそうに頭を掻いて答える。
「ま、あのガキがプロになったら演奏会をタダで聴かせてもらうとするさ。」
悪名高い闇医者とは思えない台詞を聞いて、シェリーは微笑を浮かべ……ある事を思いつく。
「……先生、覚えてます?私は最初、今回の依頼を『個人的な依頼』って言いました。だから、私が報酬を払ってもいいですよ。……個人的に。」
「なっ……!?」
グレンが慌てふためいて振り向くと、そこにはシェリーの悪戯な笑みがあった。
グレンはバツが悪そうな顔をして向きを戻し、そのまま病院を去っていった。
――屋上に1人残されたシェリーの心の中は晴れやかな気分に満ちていた。ついさっきまでグレンがしていたように、彼女は柵にもたれかかって青い空を仰ぎ見る。
「……素敵な人よね、姉さん。」
聞こえてくるバイオリンの音に混じって、カタリナの笑い声が聞こえた気がした。
〈END〉