人でなしのエドガー 第4巻 「蛍火の行方」
町から数アージュ離れた一帯に広がる、ル=ロックル渓谷。切り立った両側の崖が、深く細長い谷を形作っている。そのせいか、朝とはいえ絶壁の谷間は薄暗かった。
ふと、外界と遮断された感覚に陥る。
「空が、狭い」
遥か頭上を、2羽の鳥が横切って行った。
彼らが飛んで行く先を見上げ、ぼくは昨日の彼女との会話を思い出していた。
「お2人は“ホタル茸”って知ってますか?」
夕食を食べていると、クレムがそう尋ねてきた。
「見たことあるぜ。食ったことはないけど」
「それってホタルなの? キノコ?」
ぼくの発言に、口に含んでいた水を噴射するヘンリー。
「キノコだよッ。キノコ生やしたホタルって気色悪いだろ」
そんな珍味もあり得そう、と思ったことは声に出さない。
「実は、珍しい食材を使った新作メニューを考えていて。
試作品ができたら、食べてくれますか?」
「もちろんです」
ヘンリーが呆れたようにぼくを見る。
「即答かよ。とんだゲテモノかもしれないぞ」
その台詞に、クレムが珍しくむきになった。
「絶対においしい料理にしてみせます」
「だけど、この町じゃ手に入らないだろ?
どっかの市場まで行けば手に入るかもしれないが。
仕入れの度にいちいち買いに行くつもりか?」
「そ、その辺は、もう少し作戦を練るところです」
と、足早に奥へ下がってしまった。
「言い方が厳しいよ、ヘンリーは。
本当にこの辺りじゃ手に入らないの?」
「どうだろうな。渓谷地帯には森があるし、もしかすると」
素早く立ち上がったぼくだったが、瞬時に反応したヘンリーにタッチの差で捉まってしまった。
「明るいうちに行くなら良し」と条件を出され、今朝からこのル=ロックル渓谷へやって来ている。そびえる絶壁は少しずつその幅を広げていき、ぼくを取り囲むのは青々とした森へと変わっていった。
ヘンリー曰く、キノコは「木陰や朽木に生える」。その条件に合う場所はすべて確認し、傘状のそれらしき物体は残らず採取した。おかげで担いでいる袋は結構な重さになってきている。
万が一ホタル茸を見つけられなかった場合は、代わりにこの大量のキノコを渡すつもりだった。
歩き続けていると視界が開け、穏やかな小川が現れた。陽の光がよく差し込んで、水面がキラキラと輝いている。木々には小鳥やリスの姿もあった。
「絵になる、ってこういうことを言うのかな」
日頃、財団の一員として働いている間は、まず出会えないような美しい景色である。
「ほう。こんなところに観光とは珍しいの」
草を踏み分ける音と同時に姿を見せたのは、初老の男性。
「1人旅か? 傷心旅行か? それとも、何か探し物かの?」
じっと見つめるぼくの眼差しに、白髪頭の老人は尻込みした。
「……コホンッ。ワシはここにキノコ狩りへ来ていてね。
ところが、見るとこ見るとこほとんど抜き取られておる」
揺るがないぼくの眼差しに、老人の目が泳ぎ始める。
「……ゴホンッ。おや、君が担いでいる袋はなんだね?
それって、もしかするとしなくても、キノコかい?」
「つまり、交換条件ということですか」
「素晴らしい! 話が分かる若人は嫌いじゃないよ。
それでは、君のホタ……じゃなくて、欲しいものは何かな?」
「ホタル茸です」
「おお! なんと! 1つだけちょうど持ち合わせがあった」
老人が差し出したのは、ぼんやりと緑色に光る茸だった。
「見つけるのに苦労したんだよ。有効活用しておくれ」
「もちろんです。ありがとうございました」
「ちょ、ちょっと待ちなさい」
立ち去ろうとするぼくを、“老人”は強い握力で引き留めた。
「話が違うじゃないか。君の持ってる袋をワシにくれ」
「交換条件を呑むとは言ってないです」
「なっ! ひ、卑怯じゃないか。年寄りをバカにするのか!」
「年寄りにしては、腕の力がすごいですね」
老人はビクッと身を震わせた。
「すべてぼくに預けてもらえれば、キノコ料理の恩恵があなたに巡ってきますよ。必ず」
「う、うるさい! 手伝ったんだから分け前は欲しいんだ!」
ホタル茸を取り返そうと、老人はぼくの腕を離さない。
「いいから返しなさい」「返しません」「返せ」の応酬。
しかしこのせめぎ合いの終点に気づいた時にはすでに遅く、「あッ」という掛け声でホタル茸は千切れてしまった。2人を包む妙な沈黙。交わらない視線。
ぼくらは揃って帰路についた。
森を抜け、渓谷を過ぎようとする頃には日が落ちていた。
「若者よ、哀れな老人を背負ってくれても良いのだぞ」
「もう少し歩けば町だから、頑張ろうよ」
諦めたように、老人はさっさと歩を進める。
お互いに悔しさやら複雑な気持ちを噛みしめている。その時。
「ちょっと、お2人さん。それ、持ってるの何かな」
背後の声に振り返ると、そこには数日前に顔を合わせたばかりの“彼ら”がいた。
「お2人とも、頭に葉っぱがついていますよ」
夕食を持ってきたクレムに言われ、初めて気がつく。お互いに他のことで頭がいっぱいだったからだ。
「実は新メニューのことで、ホタル茸は無しにしました。
なんとか作れる方法を考えたんですけどね。ダメでした」
恥ずかしそうに笑う彼女。
「……じゃあ、結果オーライってことだね」
「ああ、そうだな……」
「え?」
その晩、ぼくらは無心で食事にありついた。
◇
1時間前、渓谷で声をかけてきたのは遊撃士たちだった。食堂での喧嘩の件で出会ったボリスの姿もあった。
あの一帯は遊撃士協会が所有する訓練場と、一般人が入れる観光エリアとが区切られているようで、ぼくらは夢中になるあまりその境界線を越えてしまっていた。
そして見事、採取したキノコはすべて没収されたのだった。