人でなしのエドガー 第2巻 「ぼくの名前を」
いつからクレムのことを想っていたのか。「何月何日のどの瞬間だ」という記憶は無い。でも、この不思議な感情は嘘偽りなくぼくの中にあって、それが彼女に対して向かっていることもまた偽りじゃない。
気がつけば食堂に足を運んでいて、気がつけばクレムの姿を目で追いかけていた。小柄な体で動き回るたび、美しい亜麻色のおさげが揺れている。
クレムはぼくをどう思うだろう。ぼくの声を、ぼくの見た目を、どう感じるのだろう。
そんな問いが、浮かんでは消えていく。
「そのスナイパーみたいな目つき、嫌われるぞ」
今日も例外なく食堂にいて、いつも通りヘンリーは厳しい。
「だけど、ぼくはスナイパーじゃないから」
不機嫌な友はこっちを睨んだ。
「連日ここに来ているおかげで、おまえと共犯でストーカー扱いされていないか心配だ」
「毎日来ているだけでストーカーになるの?」
「なることもあるしならない時はならないかもな……って、こんなことをいちいち説明してる俺って何!」
「ヘンリーはヘンリーだよ。ぼくの友だち」
彼は拍子抜けしたように、バタンッとテーブルに突っ伏してしまった。
「おまえさ、今後どうするわけ?
本当にこのまま毎日毎日ここに通うのか?」
「うん。それ以外のことが思いつかないし」
「それだけじゃ、相手には何も伝わらないだろ」
「じゃあどうしたらいいの?」
「そりゃあ、自分の気持ちを伝えるんだよ。そのまんまを。
玉砕覚悟でいきなりぶつかってもいいが、堅実にいくなら、好感度を上げることだな」
「どうやって上げるの? クレムを抱っこすればいいの?」
「んなわけあるかッ。
そうだなぁ、ちょうど舞いこんだシチュエーションを例にすると――」
「姉ちゃん、客に対してその態度はないんじゃねぇの?」
指された先を見ると、酔った男性客とクレムが話していた。
「仕事中ですので、そう言われても困ります」
「ちょっと隣で飲むだけだって。“さーびす”の1つにさぁ」
「――例えば、ああやって彼女が困ってたら駆けつける。
颯爽と現れたおまえの好感度は上がる。それを積み重ねる。
ただ、今回はちと面倒に巻きこまれそうだから止めとけよ。今、解決のプロを……」
「なるほど。よく分かったよ」
席を立ち、騒ぎの中心部へ向かう。背後から「こら待てッ」と聞こえたけど、それに反応する優先順位は低い。
「ん、なんだよあんた。この姉ちゃんは俺と喋ってるんだ。用なら後にしてくれ」
「ぼくが用事があるのはあなたです」
合わなかった男の焦点が、ピタッとこちらに定まる。
「ここで話すとお店に迷惑がかかるので、表に出ましょうか」
「はあ? オレはあんたに用はねぇ。勝手に出て行きな」
「彼女もあなたに用はありません。だから一緒に出ましょう」
男は目つきを変え、激しく音をたてて立ち上がった。背丈はぼく以上、見上げる程の大男だ。
「あんま調子乗ってると、痛い目みることになるぜ」
「席に戻ってください。私は平気ですから」
クレムがぼくと男の間に立つ。
「でも、震えていますよ」
「――!」
瞳に涙を溜め始めたが、口を固く結んでぼくを恨めしそうに見ている。
「あなたが表に出るまで、僕はここを動きません」
「ほう。なら力づくでどかしてやる」
男はクレムを突き飛ばし、ぼくの胸倉に手を伸ばす。無防備な顔をめがけて拳が振り上げられた。その時。
「そこまでだッ!」
数人の乱入者に男の動きが止まる。
「喧嘩をしていると通報があったのでやって来たが、君たちのことか」
輝く胸の紋章。それが何を表すのか、ぼくにも理解できた。
「我々は遊撃士協会の者だ。事情聴取のため、支部までご同行願おう」
「遊撃士!? ちょ、ちょっと待ってくれ。オレたちは喧嘩なんてしてねぇぞ」
男は慌ててぼくから手を離した。
「ちょいと愉快に騒ぎすぎただけだ。な、兄ちゃん」
「それには同意できません」
「んだとッ。生意気言いやがって」
「はいはい、そこまで。大人しくついて来てもらうからね」
遊撃士に距離を詰められ、男の威勢の良さは影を潜めた。
「なあ、おっ母には連絡しないでくれよ? 頼むからよ」
彼らが去ったのを見送ると、別の遊撃士がぼくに向き直った。精悍な顔つきのその遊撃士は、ボリスという名だった。
「助かりました。彼のこと、よろしくお願いします」
「ん? もちろん君にも来てもらわなきゃならないよ。
喧嘩は両成敗だからね。学校で習わなかった?」
「喧嘩は両成敗……なるほど」
そして肩を掴まれるまま、ぼくも連れ出されたのだった。
◇
エドガーたちがいなくなった店内。呆然としているクレム。
「いやー、うちの相棒がすみませんね。騒がしくしちゃって。
頭でっかちなもんだから、俺の制止も効かずじまいで。
急発進・急ブレーキなヤツで困っちゃいますよね、あはは」
笑いかけるヘンリーに、クレムの反応は悪い。
「えーと、げ、元気ですかー?」
「……あの、一緒に行ってしまったお兄さんは?」
「へ?」
「お兄さんの、お名前は?」
「あ、ああ。エドガーですよ」
「エドガー、さん。お礼を言いそびれてしまいました」
そう呟くクレムに、ヘンリーは苦笑するしかなかった。