人でなしのエドガー 第1巻 「始まりの秋」
カーテンの隙間から、淡く光が漏れている。のっそりと起き上がって、寝ぼけ眼で窓に近づく。結露でいっぱいのガラスを指で撫でると、そこだけ太陽の温かさを感じられる気がした。
後ろを振り返れば、君の寝顔がある。鼻がくっつくくらい顔を寄せたけれど、ピクリともしない。前髪をそっと触っても、目は開かない。ほっぺたをつまんだら嫌そうに寝返りをうったので、掛け布団を直して寝室を出た。
台所に行って、鍋に残っていた昨日のスープを火にかける。次はサラダを。レタスにハムにゆで卵。トマトはくし形切りにして、2つ並んだ片方の皿だけに盛る。
君は、生のトマトを嫌っているから。
「4歳の時だったかな。
お父さんが食べさせようとしたトマトを、口に入れた途端に吐き出したんだって。
何がダメだったのか自分でも分からないけれど飲み込むのも嫌なんて、ひどいよね」
申し訳なさそうに、君は言っていた。
支度が整ったところで、寝室のドアが開いた。
「おはよう」
君は気持ちよさそうに背伸びをする。
「ねぇ、エドガー」
君はぼくを見る。
「エドガー?」
君はぼくの名前を呼ぶ。
「エドガー」
何度も名前を呼んでくれる。
「おい、エドガー!」
君は――
「――!」
勢いよく広がる視界。耳に駆けこんでくる喧噪。
ここは町の食堂。向かいに座っているのは友人のヘンリー。
伸びかけの若葉色の髪に、寝癖をつけっぱなしだ。目の前には彼が注文した料理が。瞬時に状況を整理する。
「あの、お水を持ってきましょうか?」
声をかけてきたのは、ウェイトレスの少女・クレム。ぼくを見つめる瞳は、青空のような色を宿している。
「ああ、一応……」
「いえ、大丈夫です。お構いなく」
ヘンリーの言葉を遮り、彼女に断りを入れる。クレムは困惑しながらも、テーブルを離れていった。
「なーにが『お構いなく』だ。イイ人ぶりやがって」
「余計な手間をかけさせたくない」
「まぁ、水を飲んだところでって話か」
ヘンリーはまたムシャムシャと食事を再開した。
「これ、ぼくの分もあげるよ」
手をつけていないハーブサンドを勧める。
「頭が重くて、食べられそうにないから」
「最近、そういうの多いよな」
「うん。しかも急に。自分じゃ知らない風景が映るんだ」
視線を上げると、忙しなく歩き回るクレムが見えた。食堂に集まる客に話しかけられ、笑顔で返事をしている。
「思うに、あの子のことを意識し始めてからだよな。
恋焦がれる野郎共を散々見てきた俺には分かる」
うんうん、と頷くヘンリー。
「そう、なのかな」
ついクレムを目で追いかける。
「ぼくのことはヘンリーに聞くのが一番だね」
視線に気づいた彼女は、こちらに優しく微笑んでくれる。
「なんだか自分が分からなくなってきたから」
ため息を吐くぼくに、親愛なる友は困ったように笑った。
――七耀歴1294年、9月。エプスタイン財団の本部を抱えるレマン自治州にて。財団の一員であるぼくはヘンリーとともに、これまで通り研究と実験にこの身を費やすつもりだった。
1人の少女に、恋をするまでは。