陽溜りのアニエス 最終回 陽溜りのアニエス
エドウィン・アーノルドがその少女に勝てたことは一度としてなかった。少なくとも覚えている限りは一度もだ。腕っ節には自信があったし、これでもそこそこ頭も切れる……つもりなのだが、出会った瞬間から今日まで、ぐぅの音も出ないほど負け続けている。
そう、2年前のあの日からずっとだ。
光の洪水の中で、何もかも吹っ飛んでいた。 何もかもが空へ向かって昇っていく。エドウィンはその中でどうやら宙に浮いているようだった。少女の手が伸びてきて、エドウィンの両手をつかむ。その陽光みたいな柔らかい光の中で、アニエスは全体がぴかぴか光って、クリーム色の髪が白い炎みたいに燃えていた。
――エド――…………
ありがとう。今まで楽しかった。
――何だよ急に。ってかここはどこだ? 夢なのか?
――ふふっ……エドは本当に鈍いよね。
――きっとエドは今日のことを忘れちゃうけど……
でも、言っておきたいことがあるんだ。
アニエスはにっこりと笑った。それは『幸せそう』という言葉がぴったりくる、いままで見せたことのない、きっと見せられなかった笑顔だった。
――私は魔法使いなの。
これが本当の私の姿なのよ、エド。
あのとき驚いたのか納得したのか、エドウィンはよく覚えていない。でもアニエスは頭が切れるし喧嘩も強いし、勘は鋭いし何でも知ってるし、まぁ魔法使いだってんならなるほどな、と今のエドウィンなら思う。
なるほどな、さすがはアニエスだ、じゃあバーボンを1杯くれ! ……アニエスが居たなら黙ってアイスティを出すだろう。アンカーヴィルの街にアニエスの姿はもうない。
何だかいつの間にか骨折していた肋骨2本の治療が終わって、退院したエドウィンは首都行きの長距離バスに乗っていた。本当は自転車で行こうかとも思ったが、流石に首都は遠い。それに今後のことを思うとバスの方が都合がよかった。
あのモンテニューもウェーバーハルト氏殺害の容疑で捕まったことだし、墓を暴かれていたティセの身元も調べ、手を合わせてきた。 もう事故が頻発することもないだろう。がたごとと揺れる車体に身を委ねながらエドウィンはこれからの事を考えた。
街の人々からはあの日の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。一人の少女がいつ消えたのか誰も知らず、エドウィン自身、あの夜の出来事がうまく思い出せずに毎日ウンウン唸って、最近ようやく少しだけ分かってきたのだ。
確かあの時、アニエスは最後にこう言っていた気がする。
『記者じゃないエドなら、また会ってもいいよ』
『どういうことだよ、そりゃ!』
『だって記者は、うやむやな事を追及しちゃうでしょう?
(胸元の翠耀石(エスメラス)に触れて、何だかいいにくそうに)
エドは自分の気持ちにも鈍感だからなぁ……』
フン……やだね、俺はやっぱり正義の記者になる。エドウィンは窓際の席で手帳を繰って次の予定を確認した。独立で記者をやるのは想像よりずっと大変らしく、特訓してくれたブランドンも始終嘆息していた。
でも……他ならぬアニエスにそんな事言われたら、気になるじゃねーか! 信じねえよ、もう会えないだなんて。……だから、俺は記者を続ける。でもって気持ちとやらもハッキリさせてやるぜ。
待ってろアニエス、絶対見つけ出すからなっ!!
風がどうと鳴って、どこまでも広がる大草原を渡っていく。カルバードの風は雄大だ。「大きい風ね」とあの日の少女も呟いた。この同じバスの窓際で頬杖をついて、陽光にクリーム色の髪をくるくる踊らせて。アンカーヴィルに来た少女はいつだって陽溜りの中にいた。エドウィンは小さく笑う。正義の記者は、自分の目で確かめた事しか信じないんだぜ? 砂利道をゆくバスの上に、8月の青天が広がっていた。 〈了〉