陽溜りのアニエス
碧の軌跡より、陽溜りのアニエス一気読み。しかし、「魔法使い」は結局何なんでしょうね。至宝の一族だと魔女と被るし、舞台共和国だし。ルシオラさんが「共感できる」って言ったのは身の振り方とかだろうしなあ。
陽溜りのアニエス
第1回 クリーム色の少女
エドウィン・アーノルドがその少女に勝てたことは一度としてなかった。少なくとも覚えている限りは一度もだ。腕っ節には自信があったし、これでもそこそこ頭も切れる……つもりなのだが、出会った瞬間から今日まで、ぐぅの音も出ないほど負け続けている。
そう、2年前のあの日からずっとだ。
大時計がコチコチ鳴って、その年季の入った喫茶店に今も時間は進んでいることを知らせている。でも19歳になったエドウィンは、そんな事はお構いなしにそのいつものカウンター席でウンウンと唸っていた。
「いやいや完璧だろう、今日の記事は」もう3回も見直したし、取材してきたコメントもちゃんと盛り込んだ。ペンでカリカリとアンダーラインを引きつつ、エドウィンはもう一度唸った。
午後の編集会議で通れば、ようやく自分の書いた物が紙面に掲載されるのだ。今日という今日は手が抜けなかった。ここは一つ、万全を期すとしようじゃないか……。
エドウィンは上目遣いでカウンターの先を伺った。
「……アニエス、どう思う?」
「さあね、しらない」
一つあくびをしながら、クリーム色の髪が横切っていく。アニエスの2年前と何も変わらないその癖っ毛は、動きに合わせてくるくると巻いて、風もないのに踊っているかのようだ。
まだ営業時間じゃないんだけどなー、どうしてこの人は朝っぱらから押しかけてるのかしら。そんな事を呟きつつ、手にしたグラスの水気を素早くふき取って食器棚へと返していく。
「いいから見てくれ!……いや、お願いします見てください。知ってるだろ? 新米記者の俺がコラムを取るチャンスなんだって!!」
エドウィンはぴたっと手を合わせて頭を下げた。
「……………………………………」
エドウィンは2つ年下の自分にも、衒いもなくそんな事ができるのをアニエスは知っていた。だから困るんだよね、もう。また1つ洗いあがったコップを取りつつ、アニエスはチラリと視線を走らせて言った。
「スペルミスが3箇所もあるわ。わぁびっくり。あと日付が間違ってるんじゃない?」
なるほどな。エドウィンは即座に赤ペンに持ち替えてチェックを始めた。
「……イマサラだけど」
「なんだよ。言いたい事があるならいえ!俺はこのコラムに命賭けてるんだ!」
「お料理コラムだけどね」
「お料理コラムでも記事は記事だぜ」
「まあね。……でも、エドに記者の仕事は向いてないと思うんだ」
だって記事書くの遅いし、注意不足だし。鈍感じゃない。私が特訓してあげたおかげで通信社の試験にパスできたのはいいけど、そんなので記者をやっていく、なんて無理じゃないの?
アニエスはずっと前から不思議に思っていたのだ。どう見ても勉強が得意じゃないエドが、どうして記者なんて目指したのか。
でもすぐに後悔した。エドが原稿をトントンと揃えニヤリと笑って立ち上がったからだ。
「フン……正義の記者ってカッコイイだろ!!」
朗報を期待しててくれと言い残したとき、エドの姿はもうなく、ただカラカラと扉の鈴が鳴っていた。
はいはい、そんな事だろうと思った。
肩をすくめたアニエスの傍で、寝ていた黒猫がブニャーと鳴き声を上げた。
第2回 イートン通信社にて
アンカーヴィルといえば、カルバード共和国でもそこそこの大都市と言っていい。さすがに首都ほどではないものの、それなりの企業が集まり、また山あいに向かって順序よく立ち並ぶ白い街並みや、大河に面した港や市場たちがこの街を大きく見せている。
その市場の一角を抜けたエドウィンは、自転車のペダルを勢いよく踏み込んでサンセット通りの交差点を折れた。その先に小さなローカル誌を出す『イートン通信社』はある。
半数近い記者が席を立って、何かをやかましく話し合っていた。入ってきたエドウィンに気付かず原稿をバシバシと叩くベテラン記者のロイス。いかにも徹夜明けの顔で通信機を取るのは経済面担当のクレフだ。
デスク――つまり編集長――のチャンは気難しい顔で何度も頷いている。……漏れ聞こえる言葉から、どこかであった交通事故の取材に手間取っているようだ。それを尻目に堂々と、かつ素早く自分の席に滑り込んだエドウィンは、愛用のボロカバンを手繰り寄せてにんまりした。
「調子よさそうじゃねえか、遅刻の癖によ」白髪の目立ち始めた頭が突き出てきて、喧騒の中でも聞き取り易い声で嗜める。ブランドンは文化面のチーフでエドウィンの監督役でもある中年親父だ。待ってましたとばかりにその鼻先に原稿を突き出すエドウィン。
「今日の記事はバッチリですよ。編集会議、よろしくお願いします!」
「またスペルミスがない事を祈っててやるよ」
お前何度叱られれば気が済むんだよ、とブランドン。それを聞いてエドウィンはまたニヤリと笑った。今日は大丈夫です、絶対に!
その時また別の通信機がけたたましく鳴って、通りがかった女性記者のカーリーが取った。イートン通信社には4台の通信機がある――
「えっ……?」カーリーの眉が大きく歪んだ。
「……今朝の5時ですね。……はい……はい………」
立ち上がったカーリーは手を高く挙げた。それを慎重に、けれどもしっかりと左右に振ってみせるを途端に駅のホームみたいに騒がしかった編集部は静かになった。割れ物を扱うのと同じくらいそっと通信機を置いたカーリーは、チャンに視線を投げた。「デスク、ウェーバーハルト氏が死んだそうです」
「政治班~、集合~っ!」誰かが大きく2つ手を叩いて、うーっすと声を合わせた記者たちがバタバタと立ち上がる。あの人が死んだか、うちは地元だしなぁ。そんな呟き声とともに、デスクの前にはあっという間に10人を超える人だかりができていく。
「誰ですかね、ウェーバーハルト氏って」
「誰ですかじゃねぇよ、大物じゃないか」
大のつく文化人だぞ、一般常識もねえのかお前。集まった政治班の連中のダミ声に耳を傾け、ありゃ特集記事を出すなと呟いて、ブランドンは手の中の原稿をエドウィンにつっかえした。
「午後の会議は中止だ、エド。お前取材の手伝いに行ってこい」
「ええっ……!! なんでですかっ!?」
「なんでじゃねえよ」
チーフの命令は絶対なんだよ。そのしかめっ面に、思わず立ち上がったエドウィンは、何だか地面がぐらりと揺れた気がしてよろめいた。
……いや、みんなよろめいた。窓の外からは何か金属の潰れる音と、巨大な質量が引きずられる音が響いてくる。
そしてドン、と窓ガラスを震わせて、横転した導力バスが火を吹き上げるのが見えた。交通事故だ……。とっさにボロカバンに手を伸ばしたエドウィンは、もう全力で駆け出していた。ただ記者魂が命じたというわけじゃない。……気のせいかもしれないけど、叫び声を上げる雑踏の中にアニエスの姿が見えた気がした。
第3回 金の瞳
「……アニエスッ!!」飛び出した1ブロック先を目指して全力で駆け出した。足には自信がある。ついでに目もいい。目前の光景の中に、確かにアニエスはいた。が、それは一瞬こっちを見て、エドウィンが混乱する人々とぶつかっている間に消えてしまった。なっ……何で逃げるんだよっ!?
爆ぜるような嫌な音がして、また倒れた車体が火を吹きだす。「くそっ!!」ようやく辿り着いたエドウィンはコートを脱ぎ、火を叩いてドアをこじ開けようとした。中からは悲鳴と助けを求める声が上がり、窓からは運転手の腕が垂れ下がっている。
……原稿が採用されなくったって本当はいいんだ。エドウィンは頭のどこかでそう呟いた。正義の記者を舐めるなよ!!
「カゲマル、今日は買い物に行くんだからね」その朝、エドウィンを送り出した後で、アニエスは出かける支度をしていた。昨晩大事なことを思い出したのだった。もうすぐ叔父さんの誕生日じゃない。
この喫茶店のマスターであるアニエスの叔父は、今年40になる。エドの誕生日なら「めんどくさい」の一言で片付けられるけど(といっても、去年もそのまた前も、後で何かをあげた気がする)お世話になっている叔父さんにそういう訳にはいかないでしょう。
水を飲んだグラスを置いて、アニエスはカウンターで居眠りを続けるカゲマルをもう一度嗜めた。この怠け者、聞いてるの? 黒猫はブサイクな顔を歪めてただブニューと鳴く。まったくもう……
奥でビール瓶を運んでいた叔父に適当な断りを入れてから、アニエスは寮になっている2階に上がった。
今日は動きやすい服がいいな。
部屋のドアを開けて入り、またすぐに出てくる。アニエスはもう軽いタンクトップに着替えていた。廊下に掛けてあるお気に入りのニット帽を被って、ハミング交じりに階段を下りてくる。
……と、カゲマルがこっちをじっと見ていた。誰も見てないし、いいでしょ別に。アニエスはそう肩をすくめて歩きだした。「行くよ、カゲマル!」
黒猫はひらりとジャンプして、ニット帽の上に着地した。その拍子に、またクリーム色の髪があちこち撥ねだす。もう、あんたって子は……! 腰まであるアニエスの髪は、なぜだか隙あらばぴょこぴょこする。慌ててあちこちを押さえたけれど、踊りだした髪はやっぱりもう直ることはなかった。
アニエスの母は、10年前のある日にいなくなってしまった。父は温厚な人で、15になるまで一緒に暮らしたけれど、やっぱり母を諦め切れなかった。だから喫茶店を開く叔父の元にアニエスを預け、母を捜しに行ってしまったのだった。
今ならアニエスにも、2人のそれぞれの気持ちが痛いほど判る。きっと母も、父のことが死ぬほど好きだったのだろう。
「はぁ、どうしよっかな……」港沿いの市場に来れば出店もたくさんある。そう思って来たけれど、何を買うかまでは考えていなかった。叔父さんに探りを入れておけばよかったかもしれないな…… アニエスはそんな事を思っていたのだった。導力バスの巨体が飛んでくるまでは。
突如車線を外れたその大型バスは、勢いよく分離帯に乗り上げて、こちら側――つまり対向車線側――を走るトラックのどてっ腹へと突っ込んできた。鮮やかなグリーンに塗られた車体に太陽がチカチカと反射して、おかしな方向に捻じ曲がったタイヤは早くも宙へと飛び始めている。
運転手の人、もう死んでる……
宙に浮くバスを見て、アニエスは漠然とそう思った。頭の中は混乱していた。でも同時にこれ以上ないほど冷静だった。この大きな金属の塊が地面に落ちる頃には、最前列の紳士も窓際の妊婦さんも、みんな死んでしまうのだろう……
「――カゲマル」 言葉に応え、カゲマルがその金色の目を開いた。アニエスも目を見開いた。人々が悲鳴をあげ、我先にと逃げ出す中、4つの金の瞳がただその先の世界を見詰めていた。
第4回 正義の叫び
エドウィンはまた1人、また1人と乗客を助け出していた。バスの車体が市場の一角につっこんだお陰で現場はパニックだった。その上ぶつけられた方のトラックが、何か燃えやすい物を運んでいたらしい。肌を焼く熱風と煙が押し寄せてきて、エドウィンは激しく咳き込んだ。だが、負けるものか。エドウィンはそう思う。ここにはまだ生きている人がいるんだ!!
「助けて……」
「大丈夫です、つかまってください!狭いけど引き上げますから!」
「だめ……私赤ちゃんがいるの……」
な、なんですとっ!? エドウィンは思わず素っ頓狂な声を上げた。専門外だろそんなの! 19の俺にどうしろって言うんだ!!
心の中でそう叫んで、口ではちょっと待っててくださいと必死で宥めて、エドウィンは立ち上がって首をめぐらせた。
巻き添えを食って衝突した導力車が何台も停まっていた。救い出した乗客は、仕事を放り出してきたブランドンたちが介抱している。どこか遠くからはサイレンの音が聞こえ始めた。ようやく助けが来るのかもしれない…… 「エド、一旦降りろ!」とブランドン。
「トラックの積荷は火薬だ、爆発するぞ!」
「降りねえよ!」
そう返した途端、なぜか腹が立ってきた。なんでこんな事故が起きるんだ。なんでみんな、もっと手を貸してくれないんだ!!
「……だいたい何で逃げたんだよ、アニエス……」
あの時アニエスは自分を見て、驚いて逃げ出した気がした。別に怒ってるわけじゃないんだ。自分に向かってバスが飛んできたら、普通やっぱり女の子は逃げ出すだろう。でもなんだか無性に腹が立つのだった。
……なんで逃げたんだよ、アニエスっ!!
「誰が逃げたっていうのよ、馬鹿!」ぱしゃりと冷たい水がエドウィンの全身に掛かった。アニエスだ。
いつもの蒼い瞳を煌かせたアニエスが、ポリバケツを持って軽く息を切らせている。……そしてきっと魚屋で借りてきたバケツに違いない。すごく生臭い。
「坊主、よお頑張ったな。あとは任せとけい!」
「みんな、こっちじゃこっち!」
アニエスの後ろからバケツを抱えた漁師やら魚屋やらがやってきて、次々に水を掛けていく。そうか、港があったんだっけか……そんな事を思い出したエドウィンの前で、アニエスはくるくると髪の毛を踊らせて、次はあっちわ次は斧を借りてきてと指示して回る。……ったく、本当にこいつは。
「エド……! そこをどいて!」その人妊婦さんでしょ? 車体の上によじ登ってきて、アニエスは女性の手を握って勇気付けた。「……エドが来なかったらもっと簡単だったかもしれないのに」「なんだよそれ!?」エドウィンがそう叫ぶと、そのクリーム色の髪の娘はようやく何だか安堵したように微笑んだ。なんでもないわ。……エドって、ほんと鈍いわね。
日が落ちた後の静かな店内に、カラカラとシェイカーの音が響いていた。叔父さんの趣味でこの喫茶店は夜はお酒も出している。パタン、とその静寂を乱暴に破って入ってきたのはエドウィンだろうと、そちらを見もしないでアニエスは思った。
「……で、どうだったの?」
「ああ、みんな命に別状はないってさ!」
エドウィンは警察と病院の話をあわせ伝えて、既に死亡しているバスの運転手以外は軽い火傷とすり傷だけだった事を話した。大事故にも関わらず奇跡的に、そして迅速な救助のお陰で助かったのだという。
「それで事故の原因なんだが……」
「運転手の人が何かの原因で死んじゃって、バスが暴走したんでしょ?」
「な……なんでそれを知ってるっ!!」
アニエスは肩をすくめて導力ラジオのボリュームを上げた。アナウンサーが今回の交通事故の概要と、その原因を報じていた。
「ねえエド、あなたやっぱり記者には向いてないんじゃないかな」
素直に正義の味方になった方が向いてるわ、きっと。ふぅむと手を擦り合わせて唸ったエドウィンは、鋭い目線を投げつけてこう言った。「バーボンをくれ!」
はいはい、アイスティーね。お酒に弱いくせに格好つけるものじゃないわ、エド。
でも……そもそも運転手の人はどうして死んでしまったんだろう。ラジオのアナウンサーが今度は別の交通事故を伝えていた。最近事故が多い気がするなと思いながら、アニエスは新しいグラスを取った。
第5回 下り坂に風は吹く
月が変わってその年の7月4日、エドウィン・アーノルドは記念すべき人生初の会見取材に臨もうとしていた。といっても、もちろん、政治班の取材の手伝いである。先月急死した大文化人、ウェーバーハルト氏の遺産を巡る問題がこじれており、世間の耳目を集めているのだった。
「……それでな、たった1人の養子は、そのすぐ後、水難事故で死んじまったんだよ」
エドウィンは懸命に自転車を漕ぎながら言った。そろそろクロムウェル通りの上り坂だ。今日こそは一度も止まらずに登りきってやるぜ、とお決まりの文句で息巻いてみせるエドウィン。
「……で、今はウェーバーハルトの親友と、理事長ってのが相続を主張してて…… でも養子が死んじまったのは、その2人の、陰謀、だって、噂も、あるんだ……っ!」
「ふーん、ありがちな話ね」
「で、どうなんだ。……やっぱ陰謀説は本当なのかっ!?」
そんなの私が知るわけないでしょー。アニエスはゆっくりと進む風景を眺めながら呟いた。ペダルの振動が保温バッグを抱えて荷台にちょこんと乗るアニエスにも伝わってくる。イートン通信社にはエドの上司ブランドンをはじめ大のコーヒー好きが多くて、アニエスは週に一度、叔父さんの作る凝ったコーヒーを届けに行くことになっていた。
ほとんど趣味みたいな出前サービスだけど、こういう仕事は嫌いじゃない。……エドが送っていくと言って聞かないのがちょっと暑苦しいけど。
「そういえば、エド? あの料理コラム、まだ狙ってるの?」
「おう、……来月になるけど、やるらしいからさ、……いま新しい記事書いてんだ、やっぱ旬の、メニューでねえとなっ」
正義の記者って、初めはお料理コラムから入るのね。まったくエドウィンとこうしているとわどこまでも平和だ。風に乗ってくるくると踊りだす髪を気にしていると、頭の上で眠たげな目をしたカゲマルがまたブニューと鳴いた。
「ちっちっちっ……分かってねえなぁ」よく考えてみろって、料理コラムだって立派なもんだぜ。
「だって俺の記事が、みんなの食卓を、豊かにするんだぜ……? ……それで誰かがホッとできるんなら……!」
渾身の力でペダルを踏み込んで、エドは叫んだ。
「それもっ立派な正義だろ……っ!!」
自転車がついに上り坂を越えた。重力に引かれて、今度は勝手に前へ前へと滑り出す。アニエスが思わず上げた「えっ」という声には気づかなかったらしく、エドは陽気な歓声とともにスピードを乗せた。坂道を駆ける風に乗って、どこまでもぐんぐんと。
……この爽快感は、きっと頑張ったエドへのご褒美だ。アニエスはずり落ちそうになるニット帽を押さえながらそう思った。そう、意外なんかじゃない。エドはいつだって目の前のことを真剣に考えている。そしていつも目標に向かって真っ直ぐだ。……こっちが悔しくなるくらいに。
「……さっきの話だけど」
「…………んあ? なんだって!?」
「ウェーバーハルト氏の遺産の話よ。誰かが第一相続人を殺したかもって噂」
アニエスは風に負けじと声を上げた。絶対にばれない自信があったら、そんな事をするかもね!!
なるほどな、と何度も頷いてみせるエドウィン。
「よしっ、今日の会見で質問してみせるぜ!!」
「……もう、だからなんでそうなるかなぁ……」
エドウィンは鈍いし単純だ。だけど、だから安心して付き合える。エドがこっちを見ていないことを確認して、アニエスは人に見せないと決めている、とびきりの笑顔をこぼした。今日エドウィンは、また1つ大きくなるのだろう。またヘマをするかもしれないけど、まっすぐと目標に向かって。
自分もついて行けたらいいのに……
「……アニエスッ!!」
「……なによっ」
「何かあったらさ、俺を呼べよっ?」
なんてったって正義の記者だからなっ! 青天の空にエドウィンの陽気な笑い声がこだましていった。
第6回 亀裂
アニエスを通信社に届けた後、先輩記者たちに率いられたエドウィンは、アンカーヴィルの街で一番の大会館に来ていた。今日ここでウェーバーハルト氏の膨大な遺産について会見がある。さあ、取材をしようじゃないか! 席とりをしておけと言われ、会見室へ急いだエドウィンだが、今彼は見知らぬ廊下をぐるぐると回っている……気がしていた。
どこだよここ。どうして会見室につかないんだ!?段々腹が立ってきた。ズンズン歩きながら適当なドアを開いて入ってみるが、それは小さな物置場所だったり、やっぱり廊下だったりした。アニエスが見れば「まったくもう」なんて言いながら、むすっとした顔を作ってみせることだろう。でもエドウィンはいつだって本気だ。
どこからか、会見開始20分前を伝えるアナウンスが聞こえてきた。……あれ、やばくないかこれ。そろそろ焦りを感じ始めたエドウィンが、何だか金縁で「控え室105」と書かれたドアを勢いよく開けると、そこには品の良いスーツにネクタイを締めている、30代後半といった男がいた。「……おや、会見にはまだ時間があるはずだが?」
エドウィンはぴぃんときた。この男、確か編集部に写真が貼ってあった人物だ。ウェーバーハルトの親友でも関係財団の理事長でもなく、生前から財産の管理をしていて今はその遺産をどっちに渡せばいいんだ、と悩んでいる『真ん中の男』。財産管理人ハクス・モンテニューだ!
それでエドウィンは言った。会見の段取りを尋ねてくるモンテニューを完全に無視して。
「……俺っ、イートン通信のエドウィンといいます。今日の会見内容を取材させてもらえませんか!?」
これは俺一人のネタだ! と言わんばかりの非常識な申し出は、さすがにぽかんとされたが、エドウィンはもちろん本気だった。
「――氏の遺産分配に関しては、本当にご両名に決めていただかないとね」
私は税理士であって法律家ではない。半分お情けで取材に応じてくれたモンテニューは、クッションの効きすぎた黒革椅子に身をゆだねてそう答えた。基本は半々に分ける事になっている、ただ土地や美術品もあるし、あの両氏が簡単に引き下がるとは思えないがね。
「遺産は相当なものでしょう?どっちかが独り占めを狙ってるって事は?」
「ノーコメント。私の預かり知らぬことだよ」
「ええと……では、本来の相続人であるウェーバーハルト氏の養子が亡くなった件について、何かご存知の事は……?」
「………………………………」
唐突に沈黙が訪れた。今まで流暢だったモンテニューは石像のように何も言わない。……しまった、怒らせちまった? こんなのゴシップ紙の質問じゃねえか!エドウィンがようやく自分の無神経っぷりに気付いたとき、モンテニューの右手がそっと動いた。中指でトントンと机を叩き、今度はその人差し指が彼のこめかみをエレガントにつつく。……エドウィンにはそのジェスチャーの意味が判らなかった。
「私個人としては……、これはかなりぶちまけた話だからオフレコでお願いするが――……氏の遺産などに興味はないね」
モンテニューは言った。確かにウェーバーハルトの遺産は巨額だが、人を殺してまで手にする価値があるとは自分は思えない。
「君は知っているかな。この世には人智を超えた、もっと凄まじい価値もあるのだよ。――そう、例えば『魔法使い』の一族とかね」
記者たちが取材に出てしまった編集部は静かだ。まばらに残った人たちにコーヒーのおかわりを配りながら、アニエスはちらりと室内に目を走らせた。
机に残った書きかけの原稿や、壁に貼り付けられている無数の付箋――スペルミスばっかり――を見て、アニエスの頭の中では明日のイートン通信がだいたい組みあがってしまう。……エドの出番はしばらくなさそうね。それに、またどこかで事故があったみたい。やっぱり最近、事故が多い気がするな……。
ふと、正面に貼られた写真に目が留まった。
「あの、チャン編集長、この人は……?」
部外者立ち入り禁止の編集部だが、ガミガミ編集長で通るチャンもアニエスを咎めたことはなかった。チャンはただぎょろりとした目を向けて、ウェーバーハルト氏の財産管理人だ、と言った。
写真は2日前の会見のものらしい。そのやり手の実業家といった男に、アニエスは嫌な直感を感じた。
……この男は私を壊すかもしれない。
私の正体を知っているかもしれない――……
第7回 エドウィンの正義
モンテニューの話はこうだった。遥か昔、聖典にある創世の時代、人類には魔法を自由に扱う力が備わっていたのだという。だが長い年月の間でその力は失われ、いまや人々は導力器の助けなしに魔法を使うことは出来ない。それが当然となってしまった。
その失われた力を密かに受け継ぐ一族……それが『魔法使い』だ。彼らは今の世にも確かに存在し、人の社会に溶け込んで生活しているのだという。
「信じないかね? まあ無理もないが…… 実は私は、この街にも1人いるんじゃないかと睨んでいるんだ。フフ……案外君の近くにいるかもしれないぞ? そうだな、もし君の考える通りウェーバーハルト氏のご養子が絶対に判らない方法で殺されたのだとすれば……それは魔法使いの仕業かもしれないな」
モンテニューは最後に、この話は絶対に口外しないように念を押した。たとえ君の肉親にでもだ。でないと今度は私や君が命を落とすだろう。
エドウィンは幼い時分から、やんちゃで単純な子供だった。確か14か15になった頃だと思う――どこかの地方のニュースが報じられる中で、とある記者が大物政治家の悪事を暴いたのを見たのだった。
人々を苦しめ私腹を肥やしていた政治家は、それはもう完膚なきまで、ものの見事に倒されてしまった。そしてその記者は事も無げにこういった。世の中の理不尽なこと、納得のいかないことを追求して、納得の行くようにするのが記者の仕事なのです、と。
それ以来、身の回りの偽善やうやむやを明らかにするのがエドの正義となった。……魔法使いだって?そんな得体の知れない奴が本当にいるなら、俺がこの手で明らかにしてやろうじゃないか――!
「……エド? いないの?」相変わらず騒がしい編集部にちょこんと顔を出し、アニエスは小声で呼んでみた。エドは最近とても忙しいらしく、店にも全然来ないのだ。原稿のチェックも頼んでこないし…… 一体何をしてるんだろう?
「あ、ああ……なんだ、来てたのかよ」自分の席で何か書き物をしていたエドは、素早く机の上の仮原稿――いつも取材レポートの一環として書かされているやつだ――をしまって振り返った。ちらりと見えた文面は、どうやら例のウェーバーハルト氏の遺産の顛末らしい。ようやく分配が決まって会見では云々、財産管理人のモンテニュー氏のコメントがどうの、リボンをつけた女の子の話、もちっと理事長の経歴をきれいにまとめとけbyブランドン。
スペルミスを2箇所見つけたけど、アニエスは黙っている事にした。なんだか少しよそよそしい態度が気になったし、今度店に来たときに冷やかすネタにでもしようと思ったのだ。
「出前のついでにお昼を持ってきたわよ。……まだなんでしょ?」
「ああ、こりゃ助かる。サンキューアニエス、ナイスタイミングだ!」
取材に行ってきやーっすと言い残して、パンの包みをひったくったエドウィンはもうドアを潜っていた。その勢い……というよりどこかいつもと違う言動に、エドが一瞬で視界から消えたみたいな錯覚がして、アニエスは思わず軽い眩暈を感じた。――なんだろう、この感じ。ブランドンやカーリーに困った視線を送ってみるけれど、事情を知っているはずの2人はただ肩をすくめてアニエスと同じ顔を作ってみせた。不安、困惑、意味が判らないといった顔を。
……どういうこと?
エドは一体何をしているの――?
第8回 22枚の運命Ⅰ
通信社から戻ってきても、まだアニエスは落ち着かなかった。……エドウィンがおかしい。いつもはあんなに単純で分かりやすいのに!
調子を整えるためにカウンターを拭いて、グラスとスプーンとフォークセットを並べなおしたが、やっぱり心のざわめきは収まらない。客は1人、近所に住むパデュー爺さんで、テーブル席で叔父さんと歓談している。パデュー爺さんが手を振ったので、アニエスも小さく手を上げて返した。
「……カゲマル、何か知ってる?」カウンターの定位置――エドウィンの席の左前――で居眠りを始めたカゲマルに聞いてみるけれど、眠たげな視線を返されただけだった。……カゲマルが知るわけないよね。
アニエスはニット帽に手を伸ばし、途中で止めた。今から探しにいったってきっとエドは見つからない。自転車も持っているし、何しろいつも猪突猛進なんだもの。代わりに引き出しの1つをあけて、古びたタロットを取り出す。……やっぱり、これを使おう。
タロット占いと失せ物探しの力だけは禁じられていない。だからアニエスは時々常連客相手に占ってあげることがあった。「当たったよ」と言って貰えるより本当の力を気兼ねなく使えることが嬉しかった。
でも、自分のために占ってはいけない事になっている。色んな事を知るというのは、それなりに危険な事だから。
――でも………… アニエスはタロットを束ねていた紐を外した。今日のエドウィンは絶対におかしい、絶対に。一度だけ大きく息を吐いて、揃えた指をタロットの上に置く。これで少なくとも何かが判るんだ。そう思うと不思議と感情が静まってきた――
「……お姉さん!」
「えっ!?」
いつの間にか目の前に、10歳くらいの可愛らしい女の子が立っていた。あれ、いつ入って来たんだろう?ともかくタロットから手を離し、赤いリボンをつけた少女に向いて、アニエスはどうしたのと尋ねた。 「お姉さん、占いをするの? あたしにも占ってくれない……?」
ティセと名乗った少女は、どうしても知りたい事があるのだという。 パパは今大変なお仕事をしている、パパのお仕事がうまく行くか、おしえてほしいの ティセは少し恥ずかしがり屋なみたいで、もじもじしながらそう言った。「ええと…………」近所の子かな。見かけないけれど。でも少女の頼みは渡りに船な気がした。自分のために力を使うのはやっぱり気が引ける。でも誰かを占うついでなら……
「 ……じゃあ、今日は特別。ティセちゃんのお願いを1度だけ聞いてあげるね」
「 わっ、ほんとう?」
「 嘘は言わないわ。もちろん私のタロットもね」
第9回 22枚の運命Ⅱ
ティセという 少女は見た目よりも幼いみたいで、カードの意味を1枚1枚知りたがった。 カウンター席に並んで座り、ティセに読み聞かせるようにして、アニエスはタロットを進めていく。結果は……うん、悪くない。
「 そうね、私の見たところ…… ティセちゃんのお父さんの仕事は、もうほとんどうまく行ってるんじゃないかな?」
きっと大丈夫よ、とアニエスは笑ってみせた。 とびきり明るく笑って礼を言ったティセだったが、感謝したいのはこっちだ。 イライラしていたのが嘘みたいに治って、本当の自分に戻れた気がする。扉の鈴をカラカラ鳴らして出ていくティセに、アニエスは最後まで手を振ってみせた。
……さてエドの事を占ってみよう。席に戻ったアニエスは念入りにタロットを繰った。 手の平が少し汗ばんでいるみたいだけれど関係ない。「関係ないわ」とアニエスは呟いた。
本気で占うときの方法は決まっている。強く念じて1枚だけ引く。アニエスの場合、これが一番確実だった
――さあ、エド、一体何をしようとしているの……?
「……お姉さん! 1枚落ちてるよ?」
「えっ……?」
いつの間にか傍にティセがいた。ティセは床から1枚のタロットを拾い上げる。ありがとうとそれを受け取って、アニエスは固まった。
――DEATH。 死神のカード。
ひどい眩暈を覚えたアニエスは少女が立ち去った事にも気づかなかった。
蛇口の水漏れの音が止まった。左手にあるタロットたちがそっと動き出し、1枚また1枚と宙に浮いていく。それでもアニエスは気づかない。ただ食い入るように、死神のカードを見詰めていた。
ズシン、と重い衝撃にアニエスは我に返った。カゲマル? カゲマルが頭の上に乗っている。その拍子に力を失ったタロットたちが バラバラと落ちた。カゲマルはひらりとカウンターに降りて、そのとろんとした目をアニエスに向けた。何やってるのさ。その目はそう言っている。「わ、わかってる。ちょっと驚いただけ……」
落ちたタロットを集めながらアニエスはそんなことを言っている自分の声を聞いた。叔父さんもパデュー爺さんも気付いてないみたいだ。でも今のは危なかった。もう止めた方がいい。このことは忘れて、はやく仕事に戻ろう。
……………でも…………
アニエスはDEATHをカウンターに置き、もう一枚タロットを引いた。同じ事柄を2度占うことはできないから、今度はこの一週間エドが追い続けている"何か"が何なのか、それを占おうとした『……ガガッ………次のニュースです、本日午後1時40分ごろ発生した交通事故についてですが……』
……導力ラジオが勝手に点いた。占う力が強すぎたかもしれない。ふらつきを覚えながらタロットを確認すると、それはSUNの逆位置。つまり『闇』だ……
ここ最近、事故が多すぎる事にはアニエスも気付いていた。つまりこれは一連の事故を『闇』に関係した何かが引き起こしていて、エドは――どうしてか分からないけど――それを知って、今1人で『闇』に踏み込んでいるということで……
「ブニャー!」カゲマルが眠そうな顔で嗜める。わかってる! でも叔父さんもパデュー爺さんも気付いてない! アニエスはもう一枚タロットを引こうとしてやめた。エドの居場所なら通信社に問い合わせた方が早いかもしれない。大時計の隣にある通信機に駆け寄って、 アニエスはイートン通信社にコールした。
「うーす、こちらイートン通信社だ」
「……あ、ブランドンさん。すみませんけど…… 昼前にエド、 どこかに取材に出かけましたけどどこへ行ったかご存知ありませんか?」
「エド?はは……何言ってんだよ。エドウィンなら朝から大人しいもんだ、ずっと席で仕事してるぞ?」
アニエスは今度こそ青褪めた。エドが席にいる?……違う、それは本物のエドじゃない!!
表の通りからけたたましい音がして、へしゃげた導力スクーターが弧を描いて飛んでいくのが見えた。 運転していた男は、地面に激突する前に死んでいるようだった。それでも叔父さんもパデュー爺さんも談笑をやめなかった、肩をゆすっても全く気づかなかった。アニエスは世界がぐらりと傾くのを感じてうずくまり、初めてこの街に何か恐ろしい力が働いていることを知った。
……立たなくちゃ………
テーブルの上にDEATHのカードが見えた。アニエスが信じられるのは、もうそれだけだった。
第10回 女教皇の道
大時計が2回鳴るのを待って、アニエスはそっと部屋を抜け出した。外から差し込む月明かりを頼りに薄暗いカウンターを抜け、ドアへ向かう。内鍵を外して深夜の冷気の中へと滑り出た。
あの後もう一度だけタロットを引いた。占う内容は「自分がいつ行動を起こせばいいか 」。答えは女教皇――つまり午前2時だ。大丈夫、エドはきっとまだ無事だとアニエスは思った。午前2時に出かければきっと救う事ができるだろう。 アニエスはふと、自分の手が震えているのに気がついた。
今動いてはダメだ、きっとその間違いでエドは死んでしまう。今は何もしちゃいけない。午前の2時まで何もしないで耐えなくちゃ――
「ブニャッ」カゲマルが頭の上に飛び乗った。カゲマルは見た目よりずっと重くて――多分怠け者だから太ったんだと思う――、でもその重さが我に返らせてくれる。アニエスは輝く満月を見上げて、一つ短く深呼吸をした。「……行こう」
調子は悪くない。目をつむって街を流れる七耀の淀みを感じ取った後、アニエスは仄かな夜道を歩き始めた。……この先にきっと『闇』がある。
アンカーヴィルの街は、 真夏でも夜は冷え込む。おまけに時間が時間だから、アニエスは薄手の白いセーターを着込んできた。クリーム色の髪が月光に透き通り、歩調に合わせて首から下げた翠耀石(エスメラス)がちゃりちゃりと小さな音を立てる。母が自分に残してくれたのは、このちっぽけな石だけだった。アニエスはもう母の顔を覚えていない。まだ小さい頃、母は人前で力を使ってしまって、どこかへ姿を消したのだ。それが自分たちの一族の掟……。教わった覚えは無くても、なぜだかはっきりと知っている。 自分達はとても危険な可能性を秘めていて、……だからひっそりと息を殺して、誰にも気付かれないように生きていくしかないのだ――。
やがて道は市街を抜け、大きな丘へとやってきた。墓地みたいだ、とアニエスは思った。丘の上へ向かって墓碑が黒々と立ち並んでいる。そしてその中に、ヒラヒラと舞う何かが見えた。
……いた、エドウィンだ!
間違えるはずがない。あれは例の交通事故の時にあちこち焦げてしまったエドのコートだ。あれほど買い換えなさいって言ったのに、まだあんなのを着て!
ともかくアニエスは身を伏せて、カゲマルを頭上から外して腕に抱いた。どうしよう、もっと地味な格好をしてきた方がよかったかもしれない……
でも、きっとこの先でエドは殺される。アニエスは呼吸を整えて、慎重にエドとの距離を測り、そっと闇の中へと滑り込んだ。
第11回 もう叫ぶしかない
エドウィンは誰かを尾行しているようだった。そのへたくそな素振りにアニエスは何度も腹を立てた。もう、そんなのじゃ見つかっちゃうわよ! でも尾行している相手の姿はアニエスの位置からは見えず、結局そのまま、何事もなく丘の上まで来てしまった。
何かがおかしい、とアニエスは思った。エドはもう姿を隠すのをやめ、誰かと向き合っている……
「すみません、また見失っちまって……」
「まあ仕方ないさ」
「くそっ、今夜こそと思ったのに……! ……でもモンテニューさん、あの女の子は本当に『魔法使い』に作られたものなんですか?」
「間違いないね。あれは人間の皮に邪悪な力を封じ込めて作った『悪霊』だよ」
君も調べて分かったろう? 事故があった現場には必ずあの少女がいたことをね。男はエドの前で右手を振りながら言った。きっと命を刈り取るんだ。こう斜めにスパッと、心臓のあたりをね。
「悪霊はよく場を狂わせてしまう。その気配を読み取れるのは『魔法使い』だけだろうね」
「はあ、そうなんですか……」
「君はまだ信じきれないようだな。まあいいが…… フフ、それではもう一つ良いことを教えようか」
男はエドウィンの耳元でささやいた。それは月光の中で、なぜだかアニエスの耳にもはっきりと聞こえた。
――魔法使いを殺すとね、その力を奪い取ることが出来るんだよ。
がさり、と手元で雑草が大きな音を立てた。しまったと心の中で叫びつつ、アニエスは襲ってきた激しい眩暈を抑えるのに必死だった。……魔法使いを殺す?
そういうことだったのか。財産管理人ハクス・モンテニュー、この男の罠に、自分はまんまと掛かってしまったんだ!
「って、アニエス……? 何でこんなトコにいんだ!いま何時だと思ってるんだ!?」
……エドウィンは鈍い。とことん鈍くて、本当に助かる。意を決して立ち上がったアニエスはエドを無視してその男、モンテニューに鋭い目を向けた。
「……狙いは初めから、私だったのね」
「こんなに若いお嬢さんだとは思わなかったがね」
「酷いことを……それだけのためにあんなに大勢の人を死なせて!」
「『それだけ』ではないさ。本物でない私が力をつけるには、これしか方法がなくてね」
「――エド、そこから逃げて!!」 アニエスはモンテニューめがけて駆け出した。まだ距離がある……とにかくエドから引き離さなくちゃ!!
だけど一緒に飛び出したカゲマルは途中で振り返って警告の声を上げた。「ブニャーッ!」
あっ……
足元も見えない力で蹴り飛ばされたような感覚があってアニエスはもんどりを打って倒れた。激痛を感じて押さえると、太股から血が噴き出している。……何かが貫通したんだ…… その時背後から幼い笑い声が聞こえてきた。可愛らしい赤いリボンがフワフワ揺れている。あなたは……昼間店に来た少女、ティセ!?
『 パパのお仕事、うまくいくのかな?
パパのお仕事、うまくいくのかな?』
ティセの白い肌がぐにゃぐにゃと波打って、皮膚の下で何かがうごめいた。「それは私の娘だよ。……よく出来ているだろう?」
アニエスは渾身の力を込めて叫んだ。エド、その人から離れてッ!! 困惑してばかりだったエドウィンも、事ここに至ってようやく状況を飲み込んだ。
……「私の娘」だって? あれはこの1週間、一緒に追ってきた『悪霊』じゃないか!!
「モンテニュー…… お前が魔法使いだったんだなっ!!」
アニエスは思った。違う、この人は本物の魔法使いなんかじゃない。ただ奪った力を操っているだけ……
――魔法使いはウェーバーハルト氏の方だったんだ!「逃げて、エド……!!」もう叫ぶしかなかった。エド、この場所から早く逃げてッ!!
モンテニューはすらりと右手を上げた。さて皆様マジックでございます、とでも言うように。「エドウィン君、彼女を連れてきてくれてありがとう。だがそろそろ仕上げでね。君も早く私の力の一部となってくれ」
その白い指が動いて、エドウィンの耳元で乾いた音を立てた。
――パチン。
エドウィンは白目をむいて崩れ落ちた。
第12回 丘の上の蝕
あーあ、あいつ何やってるんだか。エドウィンは真っ暗な意識の中でそんなことを思った。
アニエスが泣いている。泣きじゃくりながらめちゃくちゃに、なにかに殴りかかっているみたいだ。でも我を忘れたアニエスのビジョンは、すぐに弾き飛ばされてしまって、まるで喧嘩になっていない。……あいつ、俺より喧嘩強いはずなのに。
アニエスのビジョンは白く輝いて、なんだかきらきらしているけれど、今のエドウィンにはそんなアニエスの姿がごく自然なことに思えた。
『……お兄さん、みっけ! ねえ、早くこっちへ来て!』
エドウィンの意識の中にリボンをつけた女の子が現れた。ねえ、こっちへ来て! いっしょにパパの役に立とうよ! その子の腕は細くて冷たくて、まるで万力みたいな力だ。掴まれたエドウィンは思わず「ぐげっ」と変な声を上げた。
『…………ちょ……おい、君……!』
『 パパがね、早く新しい力がほしいって。ティセ、パパの願いをかなえてあげたいの!ねえ急いでっ! 』
この子……。人間の皮で作った悪霊だ、とあの人は言っていた。でもエドウィンには、この子が"悪霊"だなんてやっぱり思えなかった。
『……モンテニューさんは、本当のパパじゃないだろ?』
ぎこちなく V サインを作ってみせながら、エドウィンはそんなことを言った。本当のパパに会いたいなら、俺が調べてやるぜ? なんてったって俺は、正義の記者だからなぁ……
すぐに手当てをすれば息を吹き返すかもしれない。 アニエスはとっさにそう思った。今すぐにエドの元に行ければ!! ……けれどモンテニューの強大な力はそれを許さなかった。目に見えない丸太みたいな何かを横殴りに受けて、ついにアニエスの体は遠く吹き飛ばされ、力なくころころと転がった。
……もうだめだ、間に合わない……
もう立つ気力もなかった。そしてそう思った途端に涙が止まらなくなった。カゲマルが駆けてきて逃げようと言ったけれど、アニエスはカゲマルがいることすら気づかなかった。
――エド、どうして!!
一緒にいてくれた、たった一人の人間だった。 誰とも一定の距離を置いてきた自分だったけど、エドだけは違った。エドといる時だけは心の底から楽しかった。それを必死に隠さなくちゃいけないくらいに。
ああ、たった一人の親友だったエド……!
「ハハハハ、素晴らしい!」モンテニューが 満月を背負って丘をやってくる。
「君で2人目…… 魔法使いとはまったく計り知れない『価値』だよ。初めは偶然得た力だが、こうして1人1人釣り上げていくだけで無限の力が手に入る……」
そして暇つぶしに刈り取る命はいくらでもある! モンテニューは高らかに笑った。『魔法使い』とはよく言ったものだよ。無限の欲望を生みまたそれを無限に満たし続ける。これはまさに魔性の力に違いない!
悪霊ティセの動きが止まった。表面が大きく波打って、まるで中で何かがぐにゃぐにゃと大きく暴れているようだ。そしてその肌を破ってそれは飛び出してきた。闇にすらどす黒く染みるモンテニューの魔力の本体だ。
おや、皮が限界だったか。まあいい……体にまとわりついてきた闇を掬ってモンテニューは言った。この力のせいで人を苦しめるのが楽しくて仕方なくてね。
最後はこの手でと思っていたのだよ。
「――さあ、ミンチにしてあげよう。一緒に楽しもうじゃないかぁぁぁ」
アニエスにはもうどうでも良かったから、ただ一言だけいった。――「人殺し」と。すると闇をまとってますます酔ったこの男は、腹を抱えて大笑いして、お前がそれを言うのかと可笑しがった。
「私にそうさせたのはこの力だぞ?これもすべて魔法使いの所業だよ!」
アニエスの前から満月が掻き消えた。丘の上から真っ黒な闇が湧き上がって押し寄せてきたのだ。……そう、 彼の言うとおりだ。『魔法使い』の力は呪いだ、関わった人を必ず不幸にする。だからたとえどんな形でも、正体を知られちゃいけない決まりなのだ。
エド、ごめんね。正義の記者になるのが夢だったのにね…… アニエスは静かに眼を閉じた。
第13回 魔法使い
魔力を放ったモンテニューはますます酔っていた。この力を得てからというもの、もう本当に本当に大変なのさ。誰かを苦しめたくて苦しめたくて、殺したくて殺したくて、ああ楽しくて楽しくて仕方がない!
「私にそうさせたのはこの力だぞ?これもすべて魔法使いの所業だよ!」
――黒き力は疾風の速さで墓地を駆け抜け、墓石を切り裂き、アニエスの体へ向かってきて炸裂した。少年の怒声とともに。
「んなワケないだろッッ!!」
エドウィンが立っていた。焼けこげがついたコートを羽織って、手には愛用のボロカバンを持っている。
「悪いことする奴が悪いに決まってるだろ!!魔法なんて得体のしれねー物のせいにしてんじゃねーッ!!」
辺り一面には、月光を浴びた紙ふぶきが舞っている。見るとそれは細切れになったエドの原稿で、黒い力を受け止めたらしいズタズタのボロカバンからこぼれ出ている。……これにはもう、観念していたアニエスだって目をまん丸にするしかなかった。
「……エ、エドウィン!? どうしてっ……無事だったのっ……!?」
「 おいアニエス、忘れたのかよ。俺はいつも言ってるだろ?」
困ったらいつでも呼べ! 俺は正義の記者なんだからな!!そういって親指でクイクイと自分を指してみせるエドウィンは、なんだか初めてサマになっているけれど、言いたいことがありすぎてアニエスは言葉が出てこなかった。
「というわけだから、今からお前をぶっ飛ばす!取材はそれからさせて貰うぜ、モンテニュー!!」
「ふ、ふざけるなああっっっ!!そんなボロカバンで…… ……そもそも何故生きているッ!?」
エドウィンは止める間もなく突っ込んでいく。ああ、もう!! アニエスは思った。でもそれがエドウィンだ。いつも真っ直ぐで、自分の気持ちに正直だ。エドはきっと、魔法のことを完全に信じてるわけじゃない。今だって絶対、あの禍々しい力はこれっぽっちも見えていない。でも「ありえない」とか「呪われた力だ」なんて決め付けないで、1つ1つゆっくりと納得のいく真実を知っていこうとするのだろう。エドウィンはそういう男の子だ、いつもむちゃくちゃだけど。
「――カゲマルッ!!」 さっきの黒い力の奔流を実はボロカバンの裏に張り付いて防いでいたカゲマルは、 漆黒の瞳を向けて尋ねてくる。ホントにいいの?
いいの、これ以上エドに嘘をつくのはいやだから。自分の本当の姿を見てほしいから。
アニエスは空を見上げた。
……今夜は満月だ。
風もないのにクリーム色の髪がくるくると踊って、少女の2つの腕(かいな)から照光が放たれた。
最終回 陽溜りのアニエス
エドウィン・アーノルドがその少女に勝てたことは一度としてなかった。少なくとも覚えている限りは一度もだ。腕っ節には自信があったし、これでもそこそこ頭も切れる……つもりなのだが、出会った瞬間から今日まで、ぐぅの音も出ないほど負け続けている。
そう、2年前のあの日からずっとだ。
光の洪水の中で、何もかも吹っ飛んでいた。 何もかもが空へ向かって昇っていく。エドウィンはその中でどうやら宙に浮いているようだった。少女の手が伸びてきて、エドウィンの両手をつかむ。その陽光みたいな柔らかい光の中で、アニエスは全体がぴかぴか光って、クリーム色の髪が白い炎みたいに燃えていた。
――エド――…………
ありがとう。今まで楽しかった。
――何だよ急に。ってかここはどこだ? 夢なのか?
――ふふっ……エドは本当に鈍いよね。
――きっとエドは今日のことを忘れちゃうけど……
でも、言っておきたいことがあるんだ。
アニエスはにっこりと笑った。それは『幸せそう』という言葉がぴったりくる、いままで見せたことのない、きっと見せられなかった笑顔だった。
――私は魔法使いなの。
これが本当の私の姿なのよ、エド。
あのとき驚いたのか納得したのか、エドウィンはよく覚えていない。でもアニエスは頭が切れるし喧嘩も強いし、勘は鋭いし何でも知ってるし、まぁ魔法使いだってんならなるほどな、と今のエドウィンなら思う。
なるほどな、さすがはアニエスだ、じゃあバーボンを1杯くれ! ……アニエスが居たなら黙ってアイスティを出すだろう。アンカーヴィルの街にアニエスの姿はもうない。
何だかいつの間にか骨折していた肋骨2本の治療が終わって、退院したエドウィンは首都行きの長距離バスに乗っていた。本当は自転車で行こうかとも思ったが、流石に首都は遠い。それに今後のことを思うとバスの方が都合がよかった。
あのモンテニューもウェーバーハルト氏殺害の容疑で捕まったことだし、墓を暴かれていたティセの身元も調べ、手を合わせてきた。 もう事故が頻発することもないだろう。がたごとと揺れる車体に身を委ねながらエドウィンはこれからの事を考えた。
街の人々からはあの日の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。一人の少女がいつ消えたのか誰も知らず、エドウィン自身、あの夜の出来事がうまく思い出せずに毎日ウンウン唸って、最近ようやく少しだけ分かってきたのだ。
確かあの時、アニエスは最後にこう言っていた気がする。
『記者じゃないエドなら、また会ってもいいよ』
『どういうことだよ、そりゃ!』
『だって記者は、うやむやな事を追及しちゃうでしょう?
(胸元の翠耀石(エスメラス)に触れて、何だかいいにくそうに)
エドは自分の気持ちにも鈍感だからなぁ……』
フン……やだね、俺はやっぱり正義の記者になる。エドウィンは窓際の席で手帳を繰って次の予定を確認した。独立で記者をやるのは想像よりずっと大変らしく、特訓してくれたブランドンも始終嘆息していた。
でも……他ならぬアニエスにそんな事言われたら、気になるじゃねーか! 信じねえよ、もう会えないだなんて。……だから、俺は記者を続ける。でもって気持ちとやらもハッキリさせてやるぜ。
待ってろアニエス、絶対見つけ出すからなっ!!
風がどうと鳴って、どこまでも広がる大草原を渡っていく。カルバードの風は雄大だ。「大きい風ね」とあの日の少女も呟いた。この同じバスの窓際で頬杖をついて、陽光にクリーム色の髪をくるくる踊らせて。アンカーヴィルに来た少女はいつだって陽溜りの中にいた。エドウィンは小さく笑う。正義の記者は、自分の目で確かめた事しか信じないんだぜ? 砂利道をゆくバスの上に、8月の青天が広がっていた。 〈了〉