赤い月のロゼ 第8回 正体
帝都の夜に、再び真っ赤な月が出ていた。妖しくも不気味な、深紅の満月。それは数日前よりもさらに色濃く輝き、緋のレンガの町並みを染め上げている――まるで、血のように。
吸血鬼事件による10人もの被害者が発見されたことを受け、この夜、ガラード隊の隊員たちによる深夜の巡回が強化されていた。
これ以上の被害者を出すわけにはいかない。ことは帝国軍の面子にかかわる問題である。そんな思いを胸に隊員のほとんどが出払い、担当するルートを各々が巡回していた。
その中でも、特に薄暗い一角――宿酒場《アレグリア》から道一つ離れた通りに、軍服の青年がいた。彼は不機嫌そうな顔をしつつ、もはや夜中に出歩く者のいなくなったそこを巡回している。
ふと――彼の前方の曲がり角から、人影が現れた。
それを見た青年は警戒し、腰に携えた剣の感触を確かめる。人影は青年に近づいて、徐々にその姿を明らかにしていく。
それは青年と同じくらいの歳の同僚――アルフォンスだった。その双眸は、静かに青年の姿を見据えている。
「フン、お前か」青年はあからさまに不快そうに舌打ちをした。
「持ち場はどうした。ここは確か、俺の担当だったはずだが」
アルフォンスに明らかな敵意の眼差しを向けてくる青年。だが彼は、その瞳で青年を捉えたまま、「――お前に、聞きたいことがある」と、懐から何かを取り出す。
アルフォンスが持っているのは、薄汚い布切れだ。「なんだ、それは?」怪訝な顔で尋ねる青年。
「昨日の夜、吸血鬼が現れた現場に落ちていたものだ。これはお前のものだな――エルロイ」
青年――エルロイにそう言い放つアルフォンス。当のエルロイは至って普段通りに、彼に冷たい視線を返す。
「言っている意味が分からない。その布が何だというんだ? それに、吸血鬼だと? 仮にも帝国軍に属する者が、何を世迷言を」
そう鼻で笑う。しかしアルフォンスはあくまで真剣だ。
「これは、お前が訓練で怪我をしたと言っていた――左腕に巻かれていた包帯だ」
その一部が昨晩の戦いで切り離され、捜査の死角に入りこんでいた。そうつづけるアルフォンス。ロゼによって、とまでは言わなかった。それはエルロイも知っているはずの事実だったからだ。
それを聞いたエルロイは、軍服の袖の下に隠れた左腕を押さえ、隠すような姿勢をとる。
「……そもそも、ガラード隊随一の剣の腕を持つお前が、日常的に行っている訓練でそんな怪我を負うこと自体が不自然だった。いや、けがを負ったこと自体は事実だろう。包帯には真新しい血が滲んでいたからな。おそらくそれは、レイピアによって貫かれた傷を偽装するためにわざと負ったものだ」
エルロイはそれを聞いて黙り込んだ。いつもなら、すぐさま何かしらの反論を返しただろう。だが彼は、黙った。眉間に皺を寄せ、苛立った目でアルフォンスを睨みつけている。
「もちろん、昨晩のうちに包帯は新たなものに取り替えられただろう。だが、だったらなぜ、この包帯は現場に落ちていた? お前は今朝の調査には加わっていなかったはずなのに」
それは、公にエルロイが吸血鬼だと証明できるような証拠ではなかった。そもそも伝承の存在であるそれを立証することはできない。
だが、あの時、あの場所にエルロイがいたことを示す証拠にはなる。吸血鬼の存在を知るアルフォンスにとっては、それで十分だった。
「……俺も、信じたくはない。同じ部隊に所属するお前が…… 誰よりも優秀なお前が、吸血鬼として人を襲ったなんてことは。」
「…………………………………………」
なにも返事をせず、沈黙したままのエルロイは、ゆっくりと俯いたような姿勢になる。
「だが、帝都を守るガラード隊の一員として、これ以上の犠牲は出させるわけにはいかない。反論がないなら、重要参考人として拘束させてもらう――
「……………………………………………フ」
エルロイが全身から力を抜いたような姿勢から、そう息を漏らした時――場の雰囲気が急激に重くなったのを、アルフォンスは感じ取った。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
一気に体を仰け反らせて高笑いするエルロイ。
普段、物静かな彼では考えられない、深淵から這い出てきたような禍々しい声が、夜の街に響き渡る。裂けそうなまでに大きく開けられたその口元に、アルフォンスは見た。
あの、獣のように鋭い――吸血鬼の牙を。
腰の剣に手をかけるアルフォンス。刀身と鞘が擦れ合う音を鳴らしながら、すばやくそれを引き抜き、構える――だがエルロイは仰け反らせた身体をバネのようにしならせ、こちらも剣を抜きつつすでにアルフォンスに肉薄していた。
右側の筋肉を軋ませ、棒切れを振るうような動作で力任せに剣を叩きつけるエルロイ。あまりの速度に、それを防ぐことしかできないアルフォンス。
激しい金属音とともに、その身体は持っていた剣ごと後方に吹き飛ばされた。凄まじい膂力――それは、自分が胸部を殴打された数日前よりも格段に増している。もしあの時同じ力で殴られていたなら、彼はすでにこの世にいなかっただろう。
かろうじて立ち上がり、痺れた手で持っていた剣の感触を確かめるが、すぐさま吸血鬼エルロイは剛剣にて追撃をはかる。
身体の重心を落として何とか受け止め、上手く捌いて衝撃を受け流す――だが、それで手一杯だ。とても攻撃に転じる余裕はなく、アルフォンスは防戦一方になってしまう。エルロイは何度防がれても構わず、間髪いれずに剣を叩きつけていく。
「急いたな、アルフォンス! 吸血鬼が夜に力を発揮するのを、知らぬわけではあるまい!」
確かに日が昇るのを待っていれば、少しは勝負になったかもしれない。
だが、アルフォンスは待つわけにはいかなかった。この夜にも新たな犠牲者が出たかもしれないのだ。それを知りながら安穏と勝機を待てるほどの非情さは、彼にはなかった。
彼の握力が限界を迎えたのはそれからすぐのことだった。重い一撃で剣が弾かれ、回転しながら敷石の上を滑っていく。
「終わりだ、アルフォンス!!」
エルロイはそのまま剣を翻し、右腕に渾身の力を込める。次の瞬間、それはアルフォンスの首へと振りぬかれるだろう。
弧を描いて宙を舞う、自分の首のイメージが鮮明に浮かぶ。
刹那、音が聞こえてきた。幾つもの、空を切り裂く甲高い音が――そして、今まさに振り抜かれようとしたエルロイの右腕が――消失した。
あたりに鮮血が撒き散らされる。エルロイの右腕は剣を握ったまま、アルフォンスが思い浮かべたイメージの如く弧を描いて宙を舞い、地に落ちた。
「ぐぁっ!?」
失った右腕を押さえながら、本能で後方へ飛び退くエルロイ。アルフォンスの目の前には――無数の刃が鉄線に連なった不可思議な剣――法剣(テンプルソード)の刀身が、赤い月が輝く夜空からまっすぐに伸びていた。
刀身は再び空を切り裂く音を鳴らして、鉄線をしならせながら夜空へと戻っていく。それと入れ代わるようにして、その場に可憐な人影が舞い降りた。
紫紺の外套に身を包み、同じ色のベレー帽を被った女性――。外套の下は様々な武器で固めた戦闘服を身につけている。彼女は肩までの金髪をはためかせつつ、持っていた法剣についた血を振り払うと、アルフォンスに呆れたような顔で一瞥をくれた。
膝を突いたまま、彼女に向かって薄く笑みを浮かべるアルフォンス。
「遅かったな、ロゼ――」