赤い月のロゼ 第4回 黒き吸血鬼
月に照らされる帝都を、2つの影が走っていた。
先を走る紫紺の外套をはためかせる影――ロゼは、目をカッと見開いたまま機敏にあたりを見回し、吸血鬼の姿を探す。女性のものとは思えない俊足についていく2つ目の影――アルフォンスもまた、ロゼに倣って辺りを探し回る。幼馴染の少女、ルッカの姿を探して。
酒場のマスターが言っていた食材屋と、そこへ至る短い道に彼女の姿はなかった。代わりに、禍々しい吸血鬼の気配をロゼが感じ取り、糸を手繰るようにその大本を目指していく。ルッカを探しているのに、吸血鬼の気配を追うことに、2人は何の疑問も感じていなかった。それだけの、途轍もない嫌な予感が、2人をまとっていた。
「きゃああああああああああああ!!」
つんざくような悲鳴が辺りに響く。同時にアルフォンスは背筋を凍りつかせ、立ち止まる。聞き間違えるはずがなかった。それは、見知った幼馴染の声だ。
「ルッカ、どこだ!?」
「匂いは――こちらからです!」
ロゼは凛とした声を上げると、細い路地の一つに駆け込んでいった。足をもつれさせながらもついていくアルフォンス。もはや息は限界に近いほど上がっていたが、そんなことはどうでもよかった。積まれていた木箱やゴミの山を蹴飛ばしながら進むと、視界が開け、隣の通りに出た。
そこには――何かが立っていた。“それ”は、全身黒ずくめの外套に身を包んだ不気味な格好をしていた。顔面の上半分にまで大きな布を巻いており、両目すら覆い隠してしまっている。唯一露出した下半分の顔はあまりには青白く、その口元には歪んだ笑みが浮かぶ。人間の形をしているように見えるが、アルフォンスの本能がそうではないと告げる。
吸血鬼だ、こいつが。
黒衣の吸血鬼は、手元に弱々しい何かを抱きかかえていた――ルッカだ。アルフォンスがそれを確認すると同時に、吸血鬼はその口を大きく開けた。
人間のものではありえない、獣のごとき鋭い牙が一瞬だけ見えた。事件の被害者たちの首元、そこにつけられた”咬み跡”がアルフォンスの脳裏に浮かぶ。そして牙は、気を失っているらしい彼女の首もとに、まっすぐと突き下ろされ――
先行していたロゼは、その場に足を踏み入れると同時にマントの裏側から何かを数本抜き、その全てを迷いなく吸血鬼へと投擲した。アルフォンスに渡したものより、もう一回り小振りなナイフだ。彼女の言うところの“吸血鬼狩りのための武器”だ。それが吸血鬼に向かう何本もの線となる。
吸血鬼は牙を突き立てる直前、こちらに一瞥をくれると、すんでの所で身を翻してそれをかわした。抱きかかえられていたルッカはその場に倒れこみ、吸血鬼は高く跳躍してアルフォンスの背中側に降り立つ。
あまりにも一瞬の出来事で、アルフォンスの体はとっさに動くことができなかった。真後ろにいる。帝都で連続殺人を起こしている――吸血鬼が。奴は今まさにルッカを毒牙にかけようとしていた。絶対に許さん――! 頭の中を駆け巡る言葉がそこに帰結したとき、ようやくアルフォンスは腰に供えた剣へ手をかけた。振り向きざまに渾身の横薙ぎを放つ。剣は吸血鬼の胸部を通過し、確かな手応えをアルの手に感じさせた。
だが――吸血鬼はこちらを見て不敵に笑っている。たった今切り裂かれたその胸の傷は、瞬く間に塞がってしまった。次の瞬間、吸血鬼の右の拳が目にも留まらない速度でアルフォンスの鳩尾に放たれる。
「ぐはッ……!!」
鈍い衝撃と共に肺の空気が全て吐き出される。咄嗟に急所を外すことはできたが、まともに喰らってしまった。アルフォンスはあまりの激痛に、思わず身を屈めてしまう。
「伏せてください――!」
後方からロゼの声が聞こえてきた。もはや言葉に従うしかなく、膝の力を抜いてその場に倒れ落ちるアルフォンス。彼の頭上すれすれを、レイピアによる神速の突きが通過する――狙いは吸血鬼の心臓だ。
直前まで笑みをこぼしていた吸血鬼も、その銀の煌きに何か危険なものを感じたらしく、咄嗟に左腕で防御する。
鋭い切っ先は左腕を貫き、胸部に突きたてられる――寸前に、止まってしまった。
レイピアが串刺しになった左腕からはシューシューと白い煙が上がっており、ついさっきのアルフォンスの攻撃とは全く違う、確かなダメージを与えているようだった。
『……クク、なるほど。貴様が“吸血鬼狩り”…… 屍人どもを封じていたのは貴様の仕業か』
完全に膠着した場に、吸血鬼の禍々しい声が響く。
『過去に幾人もの同族が滅ぼされたと聞いたが…… まさか貴様のような小娘だったとはな』
「“幾人”? ド畜生が人間気取りとは、世も末です」
ロゼはいつもよりさらにキツい調子で冗談めかして答えながらも、さらにレイピアに力を込め続ける。
だが、吸血鬼は腕の筋肉を無理矢理に絞り、それ以上の進行を許さない。
倒れ伏していたアルフォンスは何とか力を振り絞って、横たわるルッカの元にたどり着く。彼女は気を失っているだけのようだ。痛みに顔を歪めながらも、安心するアルフォンス。
「このまま夜明けが来れば吸血鬼の力は格段に弱まるでしょう。よろしければ、それまでご相伴をお願いしたいのですが」
『……麗しきお嬢さん、嬉しい申し出だが今回は遠慮させてもらおう。貴様たちのせいで今夜のディナーもお預けのようだしな』
吸血鬼がそうつぶやくと、その輪郭がじわりと歪んだのをロゼは感じた。そして、吸血鬼の体は外側から徐々に、黒い霧へと化し、消えていく。
『吸血鬼狩りのお嬢さん。そしてあまりにも矮小な人間よ。これからも私の食事を邪魔するつもりなら、覚悟するがいい――』
そう残すと、吸血鬼は完全に霧となり、何処かへと消え去ってしまった。
――しばらくして、訪れた静寂。
アルフォンスが胸部に受けた打撲の痛みにも、徐々に慣れてきた。骨折は免れているようだ。気を失っているルッカを背負いながら、アルフォンスはよろよろと立ち上がる。
「倒した……わけじゃなさそうだな」
「身体を霧と化す技は、吸血鬼が操る術の一つです。逃がしてしまいましたが、左腕の回復には時間がかかるはず。今夜はもう、どなたかが襲われることもないでしょう」
「吸血鬼というのはとんでもないな……だが、よかった」
「次は逃がしません。必ず仕留めます―― もう少し強力な武装を準備して」
「……とんでもないな……君も」
だが、ひとまずの危機は脱した。ルッカを助け、新たな吸血鬼事件の犠牲を未然に防ぐことができたのだ。これも目の前にいるロゼがいなければ成せなかったことだ。
「ありがとう、ロゼ。君のおかげで――」
「お礼など結構です。無意味です」
私は自分の仕事をしたまでですから、と相変わらず厳しく断じられ、肩をすくめるアルフォンス。
「事件はまだ終わっていません。あの吸血鬼の正体を何としても見つけ出さなければ」
「ああ、そうだな。さっき酒場で話した通り、明日は別の現場を見に行こう」
「ええ、ではまた」
ロゼはそう言うと、アルフォンスの別れの挨拶も聞かずにさっさとその場を去っていってしまった。あれだけのことがあった割には、あまりにあっさりしているな、とアルフォンスは再び肩をすくめた。
その後、アルフォンスはルッカを家まで送り届けた。
帰り道、彼の背中で目を覚ましたルッカは顔を真っ赤に紅潮させながら慌てた。今まで気を失っていた彼女の記憶はあいまいで、アルフォンスも詳しく事情を説明するわけにもいかず、「道で倒れていたのを助けた」 「最近働きすぎて疲れてたんだろう」などと誤魔化し、ルッカは何となく納得した。
彼女を安心させるように笑いながら、アルフォンスは先ほどの戦いのことをずっと考えていた。彼は吸血鬼相手に手も足も出なかったのだ。咄嗟のこととはいえ、渡された銀の短剣の存在をも失念していた。せめてロゼの足手まといにならなかったことが救いだったが、帝国軍人として情けなかった。吸血鬼事件の解決のためにも、次は必ずロゼの力になることを、アルフォンスは心に誓う。
――ロゼは、一人で暗い夜道を歩きながら、思い出していた。
吸血鬼の強打を受けて倒れたアルフォンスの姿を。
危うく命を落とし、屍人と化すところだった彼の幼馴染の姿を。
そして、思い出したくない“あの光景”を。
「私は、また同じ過ちを犯そうとしているのでしょうか――」
立ち止まって、少しだけ眉をひそめた神妙な表情で、ロゼは月が顔を出す空を見上げるのだった。