赤い月のロゼ 第2回 吸血鬼を狩る者
一瞬見えたのは幾何学的な模様だった。
ブーツの靴底だ。それが、アルフォンスの目の前を通過した。
それは、強烈な破壊音と共に、牙を剥く女性を吹き飛ばした。突然目の前の景色が夜空に切り替わり、体の束縛が解かれた。押しつぶされる寸前だった喉に空気が流れ込み、アルフォンスは思わず咳き込んでしまう。
「ご無事ですか?」
透き通った声――それは、すぐ傍から聞こえてきた。
立っていたのは一瞬前までは確かにいなかったはずの人物。どうやら女性のようだ。
濃紺の外套に身を包み、同じく濃紺のベレー帽を被った服装。
首筋までかかるセミロングの金髪の下に、あどけなさを残しつつも凛とした顔立ちが見える。見た所、歳はアルフォンスと同じくらいのようだ。
しかし彼は、状況を全く把握できずにただ混乱するばかりだ。女性は無表情でそれをじっと見ていたかと思うと、「ご無事のようですね。間に合って何よりです」と勝手に納得し、すぐに顔を背けてしまう。
彼女が視線を向けた先には、アルフォンスに襲いかかった虚ろな女が仰向けに倒れていた。
「あれは屍人(グール)――吸血鬼に血を吸われて生まれた、憐れなものです。」
金髪の女性はそう言いながら、左側のブーツを地面に打ちつけ履き心地を確かめている。 どうやらあのブーツで、虚ろな女――彼女が"屍人"と呼んだもの――の顔面を蹴り飛ばしたらしい。
……待てよ、今彼女は何と言った? ――吸血鬼?
「ぼーっとするのも結構ですが、できれば下がっていて下さい。邪魔です」
彼女の辛らつな言葉のあとに、何かが軋むような音が響き渡る。今まで倒れていた屍人が、無理な体勢から足だけの力で立ち上がろうとしていた。顔面を強烈に蹴られたにもかかわらず痛みを感じている様子はない。
次の瞬間、屍人は獣のように地面を蹴ってこちらに飛び掛かってきた。地面にへたり込んでいたアルフォンスは、咄嗟に立ち上がる。そして、彼女の盾となるため飛び出す――。
屍人が放った爪がアルフォンスに届く刹那、背にいた金髪の女性は落ち着いたまま外套の腰に手をやった。
そこから、すらりと何かが引き抜かれる。
それは刺突用の細身の剣――レイピアだ。刀身が美しい銀色に輝き、赤い月の光を反射する。そしてそれを、アルフォンスの背中側から、何の躊躇もなく突き出す。
切っ先は彼の首筋を掠めて、何の抵抗もなく、一瞬で屍人の喉を貫いた。
――剣が引き抜かれると、屍人はその場に倒れて動かなくなった。
それがさきほどまでまとっていた禍々しいまでの気配は消え去っていた。
アルフォンスは、目の前で起こった事態に呆然とし全く動けなかった。レイピアを掠めた彼の首筋には、薄く血がにじんでいる。
「下がっていてください、と申し上げましたが…… どうやら聞こえていなかったようですね」
金髪の女性は呆れながらも、剣を振って屍人の血を払い、鞘に収める。
「もし聞こえていた上での行動でしたら、あなたは度し難いまでの愚か者と言えますが」
澄ました顔で歯に衣着せず物を言う彼女に、アルフォンスはようやく自分を取り戻す。
「お、俺は君を助けようとしてだな…… いや、それよりもこの状況は一体なんだ!? 君は一体何者だ!? どうしてあの女性は俺を――」
――喰らおうとした? その事実は恐ろしく、とても口に出すのが憚られた。
そして、目の前にいる女性が自分を助けたのも事実だ。"屍人"とやらを一突きにして……
様々な考えが頭を巡り混乱するアルフォンスを見て、「仕方ありませんね」とため息をつく金髪の女性。
「あなたは、見たところ軍の方のようですが、近頃帝都で起きている連続殺人事件…… 『吸血鬼事件』を知っていますか?」
「あ、ああ、もちろん」
「では――その事件が、"本当に吸血鬼の仕業だ"と言ったら信じますか?」
「…………………………は?」
意味が分からない、といった表情の彼をよそに、金髪の女性は地に伏した屍人を抱き起こした。その遺体は……とても安らかな顔をしていた。先ほどまでと同じ人物とは思えない。
「――ほらここ、見てください」
彼女は抱き起こした遺体の首筋を指す。そこには、2つの赤い斑点があった。それは、『吸血鬼事件』の被害者たちにあるものと、同様の痕跡であった。
「まさしく吸血鬼に咬まれた跡でしょう」
当然のように言われても。困惑してしまうアルフォンスだったが、金髪の女性は一切気にせず話を続ける。
「血を吸われ、命を落とした人間は屍人と化し、他の人間を捕食するようになります。そして教会で祝福を施したこの剣によって再び安息を与えられるのです」
彼女の言葉に、アルフォンスは先ほどの現実味の無い一連の光景を思い出していた。
教会、という言葉が少し気にはなったが、ひとまずそれは置いておくことにした。
「……本当に吸血鬼なんてものの仕業だと言うのか? そんな荒唐無稽な話を信じろと?」
「信じろとは言いませんが、事実です。誠に残念なことではありますが」
あくまで淡々とした語り口の金髪の女性。だが言葉の通りであれば辻褄が合っていた。何より彼女の言葉には、真に迫るものがある。 とても嘘を言っているようには見えない。
アルフォンスは、彼女の言葉を信じようとしている自分がいるのに驚いていた。
「吸血鬼は、確かにこの帝都のどこかに隠れているのです」
彼女は改めて語ったあと、そして――と、自分の胸に手を当てる。
「それを滅ぼすために、私はここに来ました」
しばらくの沈黙がその場に訪れる。
金髪の女性は、それを見てまたも勝手に納得した様子を見せた。
「……まあ、本来世俗の方が関わる話ではありませんし、さっさと忘れてしまわれることをお勧めします」
そして「できれば他言無用に願います、では」とその身を翻す。
「――待ってくれ」
アルフォンスは、意を決した表情で彼女を呼び止めた。
「俺に、君の手伝いをさせてくれないか?」
彼女はぴた、と足を止める。
殆ど無表情だった彼女もこの発言には驚いたらしく、翻していた身体をゆっくりとこちらに向けた。
「……それはまた、突拍子もないご提案ですね。どうして私が、あなたに手伝われなくてはならないのですか?」
あくまで辛らつな彼女だったが、アルフォンスは静かに瞑目して答える。
「十年ほど前……俺の両親は殺された。――今起きている『吸血鬼事件』と同様の手口でな」
「……!?」
彼女は先ほどよりも眉を上げて、さらに驚いた様子を見せる。構わず続けるアルフォンス。
「俺もその時のことは、あまり詳しく覚えていない。だが……脳裏に焼き付いている」
言葉にした瞬間、その光景はあまりにも鮮明に、彼の脳裏に浮かび上がった。
十年ほど前、アルフォンスの一家は帝国の辺境の村に住んでいた。彼の父は帝国軍に所属し、近隣に駐屯する部隊に勤めていたが、大きな事件も起こらず家族は平穏に暮らしていた。
そんなある日、遊びに出ていたアルフォンスが家に帰ったところで、発見したのだ。
――血に塗れた部屋に横たわる両親を。
その遺体からは全身の血液が抜き取られていた。そしてその首筋には"咬み跡"が残されていたのだ。
あまりに猟奇的で凶悪な事件であり、当時も"吸血鬼の仕業"などと囁かれる中、軍による捜査が行われた。しかし、結局犯人に繋がる手がかりは見つからず、事件は迷宮入りとなった。孤独の身となった幼少のアルフォンスは、父の同僚で無二の友人であったガラードに引き取られ、帝都にやってきたのだった。
彼女の言うとおり"吸血鬼"が本当にいるのだとしたら、自分が直面した事件は……可能性はゼロではない。それは彼女も気づいているようだった。
「……いや、例え過去の事件が"吸血鬼"の仕業じゃなかったとしても……この事件を解決すれば、俺の過去に区切りをつけられる気がするんだ。だから……」
その場に再び、長い沈黙が訪れた。金髪の女性は、しばらく何かを考え込んでいる。
アルフォンスは、ただ彼女の次の言葉を待っていた。
そして――ため息が一つ、その場に小さく吐き出される。
「……軍に所属しているあなたなら、事件の情報を手にいれ易いでしょう。吸血鬼を見つけるために、協力していただくのは手かもしれませんね」
そう言った彼女は、懐からおもむろに何かを取り出した。銀色の短剣……その煌きは、彼女の持つレイピアによく似ている。
「屍人や吸血鬼と戦うことができる武器です。協力していただけるなら受け取ってください。――ただし、自分の身は自分で守ってください」
彼女の表情に、アルフォンスは自分に求められているものを悟った。
それは――揺るぎない覚悟。再び先ほどのような屍人と相対する覚悟。
帝都に潜む"吸血鬼"を必ず滅ぼすという覚悟――だが、彼の答えはすでに決まっていた。
「俺はアルフォンス――知り合いはアル、と呼ぶ」
決意と共に重い短剣を受け取り、自己紹介をするアルフォンス。
金髪の女性は空になった手のひらを見ると、少しだけ無表情を崩して口の端を持ち上げた。そして外套の下のスカートを持ち上げつつ、恭しくお辞儀をする。
「ロゼ――と言います。しばしの間よろしくお願いします、アル」