赤い月のロゼ 第12回 高位の吸血鬼(エルダーヴァンパイア)
帝国軍の中でも、帝都の治安維持を任された部隊。通称『ガラード隊』隊長を務める壮年の男ガラードは、アルフォンスの上司であり、また、両親を亡くした彼を引き取って育てた父親同然の男でもあった。
最近、帝都を恐怖に陥れる『吸血鬼事件』の解決に尽力しつつも、その犯人への手がかりを掴めないでいることに、人知れず苦悩していたのも知っている。アルフォンスが吸血鬼事件を己の手で解決したいと願う理由の、もう一つがそれだ。
そんな彼が、なぜこの仄暗い地下道にいるのか。
今はエルロイの襲撃にあった宿酒場の指揮を執っているはずの彼が、何故。アルフォンスには理解できなかった。いや、理解したくなかった。
「まあ流石に混乱するか」
ガラードはやれやれと言った表情で、しかし笑みを浮かべながら目を伏せ、頭を掻く。
仕事中でもうっかり「おじさん」と呼んでしまうアルフォンスを諫める時のように。あくまで普段通りの雰囲気が、途轍もなく不気味だった。
よく見るとその傍らには、虚ろな目をしたルッカが立っている。目の前で起こっている意味不明な事態に驚いている――わけではない。まったく反応を示さない。まるで、意思を失っているかのように。
「……『魅了』の、術……では、あなたが……」
我に返って声のしたほうを見る――ロゼだ。あのどす黒い血液の槍を腹部に受け、倒れ伏したままの彼女が、声を絞り出していた。その様子を見れば、彼女が致命的なダメージを受けてしまっていることは明らかだった。
ガラードは彼女が生きていたことに少しだけ驚いた様子を見せつつ、
「お初にお目にかかる、“吸血鬼狩り”のお嬢さん。私の名はガラード――君たちの追う“高位の吸血鬼”だ」
――そう、恭しく認めた。
「――たい、ちょう……」
弱々しく声を上げながら、瀕死のエルロイがアルフォンスの横を這っていく。やがてガラードの足元にたどり着いた彼は、
「隊長、隊長……すみません、俺は……」そう、すがる様に手を伸ばす。
ガラードはその手を取り、エルロイを中腰で抱き上げる。
「ああ、いいんだエルロイ。お前はよくやってくれた。忌まわしい”吸血鬼狩り”を帝都に誘き寄せてくれた。それだけで充分だ。期待通りだよ。やはりお前は見込んだ通りの男だ」
労いの言葉を並べ立てるガラードの腕の中で、エルロイはかつてない安堵を浮かべる。
「――だからもう、用済みだ。ゆっくりお休み」
唐突に温度を失ったガラードの言葉。次の瞬間、ガラードは口元をゆがませ――そこから見える獣のように尖った牙を、エルロイの首筋に突きたてた。
「あ、が、ぐああああああがががあ゛あ゛あ゛あ゛……!!」
――吸血だ。目の前でそれが行われるのを、アルフォンスは初めて目撃した。耳を塞ぎたくなるような絶叫とともに、エルロイの身体を流れていた血液が――数十人の生命を糧にしてきたそれが――ガラードの体へと取り込まれているのだ。
エルロイの若々しかった肉体は急激に、枯れ木のように干からびていった。入れ代わりに、40代前後だったガラードの体が精気に満ちていくのが分かる。同時にその体から黒い煙があがり、彼の体を包んでいく。
やがてエルロイの声は瞬く間にかすれ、聞こえなくなった。最後に――エルロイはただの砂と化して、墓所の湿った土の上に流れ落ちた。
煙が晴れると、そこには軍服の代わりに黒衣の外套を纏ったガラードの姿があった。
アルフォンスと同じ歳ほどの若々しい姿へと変貌した彼は、恍惚とした表情で、口の端から垂れた血液を舐め取る。そして、新たな体の感覚を確かめるように己の全身をじっくりと眺めていく。その様は、アルフォンスの知る彼ではなかった。
伝承にある『吸血鬼』の姿そのもの――だった。
「ああ、甘美だ。十数年ぶりの人間の血液。やはり、いい。面倒な手間をかけて下ごしらえをした甲斐があった」
満足そうにため息をつくガラードに、絶望的な顔を向けるアルフォンス。
「あなたが……エルロイを吸血鬼に変えたのか。あいつに人間の血を吸わせて…… それをまとめて奪うために……」
「人聞きが悪いな、アル。彼は進んで我が眷属となってくれたのだよ」
そう言うと、ガラードは芝居がかった動作で胸に手を当て目を伏せる。
「エルロイは孤児だった。貧しく、誰よりも大きな孤独を抱えていた。私はそんな彼に剣の才能を見出して、軍に招きいれてやった。予想通り彼は、この私に強く依存してくるようになった」
さながら本当の父親のようにね、と笑いながら語るガラード。その言葉の端々に、アルフォンスは凍えるような冷たさを覚える。
「彼は、そんな私に息子同然の扱いを受けていたお前を、いつしか疎ましく思うようになったのだろう。そして、どうにかその場所を勝ち取りたいと考えた。私はある日、そんな彼に正体を明かして仲間に誘った。彼は、喜んでそれを受けたよ。私を手伝うことで『アルフォンスより役に立つ』ことを証明しようとしたのだ」
起き上がることもできないロゼは、ただ悔いていた。
おそらく、エルロイが吸血鬼に変えられたその時に、ガラードの持つ力の一端が与えられた。その匂いを感じ取ったロゼは、彼こそが”高位の吸血鬼”だと勘違いした。そして、まんまとこの絶体絶命の状況を作り上げられてしまったのだ。
アルフォンスは、エルロイの恨みを知ってショックを感じていた。それは傍から見ればあまりにも自分勝手な恨みだったが、アルフォンスは後悔した。自分がその気持ちに気づいていれば、彼は吸血鬼にならずに済んだかもしれないのだと。
そして、ガラードこそが――裏から糸を引いてエルロイの想いを弄び、己の手を汚さずに多くの犠牲を出した真の黒幕だったのだと、認めざるを得なかった。
部隊によって深夜の巡回が毎夜行われていたのに、事件を抑止できずにいたこと。彼自身が部隊を指揮していたのだから、それも当然の結果と言えた。
その事実は、彼を父のように慕っていたアルフォンスの心に鈍く、鋭い痛みを与えた。
「ようやく私の“血への渇望”は満たされた。あとは、デザートか」
虚ろなルッカを横目で見て、舌なめずりするガラード――。そのおぞましい言葉に肌を粟立たせるアルフォンス。「――その前に」そう言ってガラードは、唐突に左手を倒れたロゼに向ける。
「”吸血鬼狩り”には死んでもらわなくてはな」
次の瞬間、掌から先ほどと同じ“血液の槍”が無数に放たれた。
アルフォンスが声を上げる暇もなく――それらはロゼの全身を貫いた。
「うぁっ……!」
彼女は倒れたまま、密かに銃口を定めていた銀の大型拳銃をとり落としていた。攻撃を受ける瞬間、彼女は全身の力を振り絞って身を翻していた。それが功を奏したか、なんとか即死だけは免れたらしい――だが、着実に“死”へと近づいていた。
「ハハ、流石にしぶといな。ならば――」
「やめろおおおおお!!」
すぐさま次の一手に入ろうとしていたガラードに、アルフォンスは飛び起きて斬りかかる。袈裟切りに放たれた白銀の剣。それは、鈍い音を立てて止まってしまう。
「おじさんに手を上げるとは何事だ、アル」
冗談めかして笑うガラードは、人差し指でアルフォンスの額を弾く。そこから想像を絶するすさまじい衝撃を受けて吹き飛び、もんどり打つアルフォンス。
吸血鬼を滅ぼすための刃が、薄皮一枚も裂くことができなかった。エルロイを介して数十人の血液を、生命を取り込んだ“高位の吸血鬼”――。決して越えられることのない高い壁が聳えたのを、アルフォンスは感じた。
絶望的な影を落とすアルフォンスに、吸血鬼は何か思いついたような顔をする。
「――ああそうだ。種明かしついでにいい事を教えてやろう。この場に生きて居合わせることができた褒美だ」
「何、を……」何とか膝を突いて立ち上がろうとするアルフォンスに、ガラードは下卑た笑みを浮かべて言った――
「お前の両親を殺したのは、私だ」
さらなる衝撃を受けるアルフォンス。
十数年前、辺境の村にある小さな家の中で、全身の血を奪われて死んだ父母。今なお鮮烈に彼の脳裏に刻まれたその光景が、一瞬にして蘇る。
アルフォンスの反応を楽しむように、ガラードは続ける。
「当時、あの村には実際に吸血鬼が潜んでいたのだ。すなわち、この私がな。その存在に気づいたお前の父は、極秘裏にその正体を突き止めようとしていた」
アルフォンスにとって初耳の事実だった。父が当時、自分と同じ事をしようとしていたのだ。
「彼は、優秀な軍人だった。あんな辺境にいるのが惜しいほどにな。だがいささか優秀すぎた。私の正体に気づく寸前まで辿りついてしまった。だから――殺してやったのだ、この手で。奴を手伝っていた妻もろとも」
アルフォンスは立ち上がって攻撃を再開する。その言葉を振り払うかのように。
「誤算だったのはお前の存在だ、アル。私はその時、まだ子供だったお前も殺すはずだったのだ。私の正体を知った可能性がある者を生かしておくわけにはいかかった。だが、お前はその時、偶然家を離れてしまっていた」
何度も繰り出される斬撃――白銀の刃が虚しく滑っていく。彼にはやはり、傷一つつけることはできない。ガラードは無視して話を続ける。
「あんな辺境で何度も表立った事件を起こすわけにはいかなかった。話に聞いていた“吸血鬼狩り”に嗅ぎ付けられる可能性があったからな。だから私は、お前を手元に置いて監視することにしたのだ」
もし記憶の中にガラードの正体に通じるものがあったなら、今日までのどこかで殺されていた。それは、そういう意味だ。
優しく、父のように接してくれた彼の姿は全て仮初だった――。今更ながら突きつけられた事実にアルフォンスの目尻が滲む。
「だが、それも終わりだ。アル、お前にはもう用はない」
いままで攻撃を無視していたガラードが、一転反撃に出る。凄まじい拳の一撃がアルフォンスの右脇腹を抉り、そのまま吹き飛ばした。「ぐはっ……!」あばら骨が砕かれ、激しい痛みが広がる。
だが、それでもアルフォンスは立ち上がった。血を吐きながら、ふらふらになりながらも、目の前の存在を絶対に許すわけにはいかなかった。
「虚勢を張っても無駄だ。おとなしく死ね」
堰を切ったように、ガラードの猛攻が加えられる。軋むほどに握り締めた拳による連撃。吸血鬼の膂力を備えたそれは一撃一撃が鋼鉄の鉄球のごとき威力を持つ。それは今や防御すらできないアルフォンスの体中に浴びせられた。
花が咲くかのように血飛沫が舞い、散っていく。
「……ア、ル……」意識すら朦朧とした様子のロゼが、自分の名を呼ぶのが聞こえた。
ここで倒れれば、彼女は殺される。意思を奪われたルッカも食糧とされるだろう。そんなことをさせるわけにはいかない。倒れるわけには、死ぬわけには。
強烈な打撃で骨を砕かれる痛みが体中を襲っていた。蓄積されていく“死”。そんな中、彼はゆっくりと剣を携え、残された力を込めて振り下ろした――。
真っ向から向かってくる拳。鈍い金属音とともに、剣は真っ二つにされてしまう。加えられた衝撃によって剣先が弾き飛ばされ、アルフォンスの右の肩口を抉った。その勢いのまま、剣先は後方に回転しつつ弧を描き、倒れ伏したロゼのすぐそばに突き刺さる。
その傷を負った瞬間、アルフォンスは自分の中の何かがぷつりと切れる音を聞いた。もはや、全ての力を使い果たした。折れた剣を握り締めることすらできず、脱力して膝から崩れていく。
そんな中……アルフォンスは、目を伏せて過去の朧げな記憶を思い出していた。
両親が殺された事件の少し前から、父の知り合いを名乗る女性がよく家を訪れていた。
当時、父が家でやっていた仕事――今思えば、吸血鬼の調査のことだったのだろう――その邪魔にならないようにと、彼女は毎日のようにアルフォンスを遊びに連れ出していた。
事件はそんなある日に起きた。あの時、家にいたなら自分も殺されていたのだろう。そして、彼女が父から離していてくれたからこそ、自分は今まで何も知らずにいられた。そのおかげで、今までガラードに殺されずに済んでいたのだ。
両親の死があまりに強烈すぎたためか、彼女の記憶は今の今まで完全に忘れていた。あの女性は今、何をしているのだろう。どうか、無事でいてほしい――。
灰色の土の上に、倒れ伏したアルフォンス。ガラードの嘲笑が聞こえる。
「さあ、アル。今こそ因縁に幕を下ろそう。父と母が、女神の元でお前を待っているぞ」
吸血鬼の右手が手刀の構えを取る。アルフォンスの首を刎ねんがため、それは断頭台の刃の如く振り下ろされる――。
――あたりが真っ白な光に包まれる。
同時に、空気が張り裂けるような音が聞こえた気がした。アルフォンスは自分がまだ生きていることを知ると、ゆっくりと瞼を上げる。
手刀の中央に――巨大な穴が穿たれていた。手首を抱えてうろたえるガラード。その断面はちりちりと焦げ付いている。
「ば、馬鹿な――」
彼の視線を追った先には――ロゼ。
体中を穿たれ、死に直面していたはずの彼女が、硝煙の上がる白銀の大型拳銃を構えてそこに立っていた。
「その方には、もはや指一本触れさせません――」
その瞳は、爛々とした真紅の輝きを讃えていた。