徒然雑記帳

ゲームプレイを中心に綴っていくだけのブログ。他、ゲーム内資料保管庫としてほいほい投げます。極稀に考察とかする…かな?お気軽に読んでいってください。

赤い月のロゼ

 

 閃の軌跡より。しかしまあ、閃の軌跡Ⅲ、Ⅳの後だと絶対キャラ違うだろっ!って突っ込みたくなりますよね。800年生きてあの口調のババ様が200年前の時点であんな口調の訳がない(笑)

 

 

 

第1回 赤い月

 歴史はおおよそ200年ほどの昔、中世の時代に遡る。

 西ゼムリアの大国・エレボニア帝国で《獅子戦役》が終結し、その立役者であるドライケルス帝が没してから十数年の月日が流れたその時代。

 帝都ヘイムダル。緋色のレンガを基調とした建物が建ち並び、《緋の帝都》の名を冠する美しくも伝統的な都市――その一角に存在する裏通りは、早朝から軍服に身を包んだ軍人たちが行き来し、注意しても解散しない野次馬たちも相まって、物々しい雰囲気に包まれていた。

 騒ぎの中心には、若い女性が横たわっている。年齢は20代前半だろうか。彼女の肌はぞっとするほどに青白く染まっており、血の気は全く感じられない。

 首筋には濃く黒ずんだ赤の斑点が2つあった。それを見た壮年の軍人は、大きくため息をついて懐中時計を取り出した。時間は6時を少し過ぎた頃だ。

 帝都の治安維持部隊を任される彼は「身元の確認を急げ」と部下に指示を出すと、手際よく女性の遺体が運び出される。それを見送った先で、その行方を目で追う、見知った若き軍人の姿に気づく。

「アル――アルフォンス」

 肩をポンと叩いて名前を呼ぶと、彼はようやく職務中だったことを思い出す。

「……すまない、おじさん」

 慌てて意味もなく軍帽を整えたアルフォンスが申し訳なさそうに頭を下げる。その表情はなおも、何かを思いつめているように見える。

「仕事中は"隊長"と呼べって言ったろう」

 冗談めかして笑うガラードは、とにかく今は集中しろと続けて他の隊員たちへの指示へ向かう。彼らしい、さりげない気遣いに感謝しつつ、アルフォンスは自分の持ち場に戻っていく。

 現場の調査を行いつつその様子を見ていたのは、アルフォンスと同年代の若い軍人だった。彼は不機嫌そうな顔をさらにしかめて舌打ちをする。

 近頃、帝都ではある連続殺人事件が起きている。被害者の多くは夜中に出歩く若い女性であり、死因はすべて失血によるもの……すなわち、 全身から血液が抜かれて、殺されてしまうのだ。そして見つかった遺体には必ずと言っていいほど、ある特異な痕跡が発見されていた。首筋に残された、"鋭い牙で噛み付いたような跡"である。

 その事実が人々の間に噂として流れると、帝国に伝わる"ある言い伝え"を誰もが思い浮かべた。

 夜を闊歩し、人の血を糧として生きる不死身の怪異の伝承――。それになぞらえて、この奇怪なる連続殺人事件はいつしか、こう呼ばれるようになる

『吸血鬼事件』――と。

                   ◇

 その日の夜、軍での『吸血鬼事件』の事後処理を終えたアルフォンスは、帝都の隅にある小さな宿酒場《アレグリア》で遅めの夕食をとっていた。

 傍らでは、彼より少し年下の少女が心配そうに食事を見守る。

 「アルくん……ど、どうかな? おいしい? 今日のは自信作なんだよ」

 控えめな照れ笑いを浮かべる、栗色のポニーテールを下げた可愛らしい少女ルッカ。十年ほど前に帝都にやってきたアルフォンスの幼馴染である。

 アルフォンスは彼女の熱心な視線に多少の食べにくさを感じてはいたが、口に運んだビーフシチューは素朴で、どことなく安心できる好みの味だった。

「ああ、旨いな。大分上達したんじゃないか?」

 その答えにどこかほっとした様子のルッカは、他の客たちの目を気にしつつも思い切ってアルフォンスの向かい側にちょこんと座る。そして、嬉しそうに微笑む。

 ……が、すぐに間がもたなくなったらしく、

「ええと、アルくん。最近、仕事のほうはどう?」などと無理やりに話題を作った。

 最近の仕事――その言葉を聞いて、アルフォンスは食事の手をはたと止める。

 俗に『吸血鬼事件』と呼ばれる事件において、犯人の手がかりは一切見つかっていない。昼間見た女性の遺体の姿が浮かぶ――彼女にも家族や友人、愛する者がいただろう。これからだったはずの彼女の生涯は、突然閉ざされてしまった。断じて許されない。彼はこの事件にとことんまで拘っていた。そうするだけの理由が、彼にはあった。皮肉にも、彼は事件の調査隊からは外されてしまっていたが。

「アル君……無理だけは、しないでね」

 その言葉に、いつのまにか強張った表情になっていたことに気付くアルフォンス。事情を知る彼女に心配をかけてしまったらしい。アルフォンスは頭を掻いてから、安心させるように「ああ、大丈夫だよ」とだけ返した。

 彼の所属する通称「ガラード隊」は、帝都の治安維持を任された帝国軍の部隊の一つである。アルフォンスは昔から父親代わりとして世話になっている男、ガラード――まさにガラード隊の指揮をとる男の勧めで軍に入り、その部隊に配属されたのだった。そして数年経った今も、詰所の近くにある寮で暮らしている。

 酒場での食事を終えていつもの道順でそこを目指すアルフォンス。

 空には不気味な赤い満月が出ており、緋色のレンガの街並みを妖しく照らしていた。

『吸血鬼事件』の影響か、最近は夜に出歩く者も少なくなっているように感じる。しかしそれでも、事件は毎夜のように起こっている。深夜巡回をしている軍人たちを嘲笑うかのごとく。

 人々が感じている恐怖が日に日に増しているのを、彼は肌で感じ取っていた。

 犯人は必ずこの手で捕まえる。心の中でそう唱え、決意する。

「……ん?」

  ふと、足を止めるアルフォンス。暗い路地を、女性がたった一人で歩いていた。夜闇に紛れてよく見えないが、何やら覚束ない足取りをしており、そのままさらに暗い裏道へと入っていく。

 『吸血鬼事件』が起きている今、無用心にも程がある――声をかけておくべきだろう。アルフォンスは女性を追いかけることにした。

 薄暗く見えにくいが、裏道へと入ったところで先ほどの女性の背中を確認する。

「君、こんな夜中に――」

 そこまで言って、アルフォンスは言葉を噤んでしまった。

 こちらをゆっくりと振り向いた女性は――明らかに様子がおかしかった。その頭は力なく横に傾いており、長い髪が顔面に思い切り垂れているのに払おうともしていない。髪の間から覗く目は虚ろに中空を見つめており、ぽかりと開いた口は声にならない呻きを漏らす。生気を感じさせない禍々しい雰囲気に、アルフォンスは思わず硬直する。

 次の瞬間――虚ろな女性は両腕を突き出し、アルフォンスの首に掴みかかった。驚きのままに体勢を崩し、そのまま押し倒されるアルフォンス。彼に馬乗りになった女性は、おもむろに指に力を込めて彼の首を絞め始めた。

「ぐぁッ……!?」

 それはあまりに凄まじい力だった。訓練を積んだ軍人である彼の力でも剥がすことができない。徐々に埋没していく指に呼吸を止められ、苦悶の表情を浮かべるアルフォンス。

 顔面に垂れてくる髪の毛の、その奥に見える表情は青白く、まさに幽鬼を思わせた。そして、女は大きく口を開ける。口の端がぴりりと裂けたが、それすらも気にしていない。

 ――食事だ。

 アルフォンスは意味不明な状況の中で、その行為の意味だけを直感した。必死に抵抗を試みるが、彼を捉える指の力はさらに増していく。腰に携えた軍用の剣(サーベル)を引き抜く余裕すらなかった。

 虚ろな女は、喉仏を食いちぎろうと、勢いよく顔面を突き出す。

 アルフォンスが自分の死を覚悟した時――

 目の前で、何かが炸裂した。

 

第2回 吸血鬼を狩る者

 

 一瞬見えたのは幾何学的な模様だった。

 ブーツの靴底だ。それが、アルフォンスの目の前を通過した。

 それは、強烈な破壊音と共に、牙を剥く女性を吹き飛ばした。突然目の前の景色が夜空に切り替わり、体の束縛が解かれた。押しつぶされる寸前だった喉に空気が流れ込み、アルフォンスは思わず咳き込んでしまう。

「ご無事ですか?」

 透き通った声――それは、すぐ傍から聞こえてきた。

 立っていたのは一瞬前までは確かにいなかったはずの人物。どうやら女性のようだ。

 濃紺の外套に身を包み、同じく濃紺のベレー帽を被った服装。

 首筋までかかるセミロングの金髪の下に、あどけなさを残しつつも凛とした顔立ちが見える。見た所、歳はアルフォンスと同じくらいのようだ。

 しかし彼は、状況を全く把握できずにただ混乱するばかりだ。女性は無表情でそれをじっと見ていたかと思うと、「ご無事のようですね。間に合って何よりです」と勝手に納得し、すぐに顔を背けてしまう。

 彼女が視線を向けた先には、アルフォンスに襲いかかった虚ろな女が仰向けに倒れていた。

「あれは屍人(グール)――吸血鬼に血を吸われて生まれた、憐れなものです。」

 金髪の女性はそう言いながら、左側のブーツを地面に打ちつけ履き心地を確かめている。 どうやらあのブーツで、虚ろな女――彼女が"屍人"と呼んだもの――の顔面を蹴り飛ばしたらしい。

 ……待てよ、今彼女は何と言った? ――吸血鬼?

「ぼーっとするのも結構ですが、できれば下がっていて下さい。邪魔です」

 彼女の辛辣な言葉のあとに、何かが軋むような音が響き渡る。今まで倒れていた屍人が、無理な体勢から足だけの力で立ち上がろうとしていた。顔面を強烈に蹴られたにも関わらず痛みを感じている様子はない。

 次の瞬間、屍人は獣のように地面を蹴ってこちらに飛び掛かってきた。地面にへたり込んでいたアルフォンスは、咄嗟に立ち上がる。そして、彼女の盾となるため飛び出す――。

 屍人が放った爪がアルフォンスに届く刹那、背にいた金髪の女性は落ち着いたまま外套の腰に手をやった。

 そこから、すらりと何かが引き抜かれる。

 それは刺突用の細身の剣――レイピアだ。刀身が美しい銀色に輝き、赤い月の光を反射する。そしてそれを、アルフォンスの背中側から、何の躊躇もなく突き出す。

 切っ先は彼の首筋を掠めて、何の抵抗もなく、一瞬で屍人の喉を貫いた。

 ――剣が引き抜かれると、屍人はその場に倒れて動かなくなった。

 それがさきほどまでまとっていた禍々しいまでの気配は消え去っていた。

 アルフォンスは、目の前で起こった事態に呆然とし全く動けなかった。レイピアを掠めた彼の首筋には、薄く血がにじんでいる。

「下がっていてください、と申し上げましたが…… どうやら聞こえていなかったようですね」

 金髪の女性は呆れながらも、剣を振って屍人の血を払い、鞘に収める。

「もし聞こえていた上での行動でしたら、あなたは度し難いまでの愚か者と言えますが」

 澄ました顔で歯に衣着せず物を言う彼女に、アルフォンスはようやく自分を取り戻す。

「お、俺は君を助けようとしてだな…… いや、それよりもこの状況は一体なんだ!? 君は一体何者だ!? どうしてあの女性は俺を――」

 ――喰らおうとした? その事実は恐ろしく、とても口に出すのが憚られた。

 そして、目の前にいる女性が自分を助けたのも事実だ。"屍人"とやらを一突きにして……

 様々な考えが頭を巡り混乱するアルフォンスを見て、「仕方ありませんね」とため息をつく金髪の女性。

「あなたは、見たところ軍の方のようですが、近頃帝都で起きている連続殺人事件…… 『吸血鬼事件』を知っていますか?」

「あ、ああ、もちろん」

「では――その事件が、"本当に吸血鬼の仕業だ"と言ったら信じますか?」

「…………………………は?」

 意味が分からない、といった表情の彼をよそに、金髪の女性は地に伏した屍人を抱き起こした。その遺体は……とても安らかな顔をしていた。先ほどまでと同じ人物とは思えない。

「――ほらここ、見てください」

 彼女は抱き起こした遺体の首筋を指す。そこには、2つの赤い斑点があった。それは、『吸血鬼事件』の被害者たちにあるものと、同様の痕跡であった。

「まさしく吸血鬼に咬まれた跡でしょう」

 当然のように言われても。困惑してしまうアルフォンスだったが、金髪の女性は一切気にせず話を続ける。

「血を吸われ、命を落とした人間は屍人と化し、他の人間を捕食するようになります。そして教会で祝福を施したこの剣によって再び安息を与えられるのです」

 彼女の言葉に、アルフォンスは先ほどの現実味の無い一連の光景を思い出していた。

 教会、という言葉が少し気にはなったが、ひとまずそれは置いておくことにした。

「……本当に吸血鬼なんてものの仕業だと言うのか? そんな荒唐無稽な話を信じろと?」

「信じろとは言いませんが、事実です。誠に残念なことではありますが」

 あくまで淡々とした語り口の金髪の女性。だが言葉の通りであれば辻褄が合っていた。何より彼女の言葉には、真に迫るものがある。 とても嘘を言っているようには見えない。

 アルフォンスは、彼女の言葉を信じようとしている自分がいるのに驚いていた。

「吸血鬼は、確かにこの帝都のどこかに隠れているのです」

 彼女は改めて語ったあと、そして――と、自分の胸に手を当てる。

「それを滅ぼすために、私はここに来ました」

 しばらくの沈黙がその場に訪れる。

 金髪の女性は、それを見てまたも勝手に納得した様子を見せた。

 「……まあ、本来世俗の方が関わる話ではありませんし、さっさと忘れてしまわれることをお勧めします」

 そして「できれば他言無用に願います、では」とその身を翻す。

「――待ってくれ」

 アルフォンスは、意を決した表情で彼女を呼び止めた。

「俺に、君の手伝いをさせてくれないか?」

 彼女はぴた、と足を止める。

 殆ど無表情だった彼女もこの発言には驚いたらしく、翻していた身体をゆっくりとこちらに向けた。

「……それはまた、突拍子もないご提案ですね。どうして私が、あなたに手伝われなくてはならないのですか?」

 あくまで辛らつな彼女だったが、アルフォンスは静かに瞑目して答える。

「十年ほど前……俺の両親は殺された。――今起きている『吸血鬼事件』と同様の手口でな」

「……!?」

 彼女は先ほどよりも眉を上げて、さらに驚いた様子を見せる。構わず続けるアルフォンス。

「俺もその時のことは、あまり詳しく覚えていない。だが……脳裏に焼き付いている」

 言葉にした瞬間、その光景はあまりにも鮮明に、彼の脳裏に浮かび上がった。

 十年ほど前、アルフォンスの一家は帝国の辺境の村に住んでいた。彼の父は帝国軍に所属し、近隣に駐屯する部隊に勤めていたが、大きな事件も起こらず家族は平穏に暮らしていた。

 そんなある日、遊びに出ていたアルフォンスが家に帰ったところで、発見したのだ。

 ――血に塗れた部屋に横たわる両親を。

 その遺体からは全身の血液が抜き取られていた。そしてその首筋には"咬み跡"が残されていたのだ。

 あまりに猟奇的で凶悪な事件であり、当時も"吸血鬼の仕業"などと囁かれる中、軍による捜査が行われた。しかし、結局犯人に繋がる手がかりは見つからず、事件は迷宮入りとなった。孤独の身となった幼少のアルフォンスは、父の同僚で無二の友人であったガラードに引き取られ、帝都にやってきたのだった。

 彼女の言うとおり"吸血鬼"が本当にいるのだとしたら、自分が直面した事件は……可能性はゼロではない。それは彼女も気づいているようだった。

「……いや、例え過去の事件が"吸血鬼"の仕業じゃなかったとしても……この事件を解決すれば、俺の過去に区切りをつけられる気がするんだ。だから……」

 その場に再び、長い沈黙が訪れた。金髪の女性は、しばらく何かを考え込んでいる。

 アルフォンスは、ただ彼女の次の言葉を待っていた。

 そして――ため息が一つ、その場に小さく吐き出される。

「……軍に所属しているあなたなら、事件の情報を手に入れ易いでしょう。吸血鬼を見つけるために、協力していただくのは手かもしれませんね」

 そう言った彼女は、懐からおもむろに何かを取り出した。銀色の短剣……その煌きは、彼女の持つレイピアによく似ている。

「屍人や吸血鬼と戦うことができる武器です。協力していただけるなら受け取ってください。――ただし、自分の身は自分で守ってください」

 彼女の表情に、アルフォンスは自分に求められているものを悟った。

 それは――揺るぎない覚悟。再び先ほどのような屍人と相対する覚悟。

 帝都に潜む"吸血鬼"を必ず滅ぼすという覚悟――だが、彼の答えはすでに決まっていた。

「俺はアルフォンス――知り合いはアル、と呼ぶ」

 決意と共に重い短剣を受け取り、自己紹介をするアルフォンス。

 金髪の女性は空になった手のひらを見ると、少しだけ無表情を崩して口の端を持ち上げた。そして外套の下のスカートを持ち上げつつ、恭しくお辞儀をする。

 「ロゼ――と言います。しばしの間よろしくお願いします、アル」

 

第3回 嫌な予感

 

 翌朝、アルフォンスは部隊の隊長ガラードの執務室にいた。『吸血鬼事件』を個人的に調査するための許可をとりに来たのだ。

 ガラード隊長は頭をポリポリと搔きながら、その歳の割りには精悍な顔で息子のような存在でもあるアルフォンスを怪訝に眺めている。

「……お前だけであの事件を追うと?」

「いえ、民間に協力者を得ました。その人物と2人で調査するつもりです」

 丁寧に答えたアルフォンスだが、内心、無理のある提案であることは分かっていた。

 

「吸血鬼の存在は、本来世俗に明かすべきものではありません。2人だけで調査できるよう、何かしら言い訳しておいてください」

 昨晩、ロゼはそんなことを言うだけ言って、「ではまた」と夜の闇へと消えていった。

 実際、彼女の言い分はもっともだ。吸血鬼のことをいくら説明しても、いくら父ほどに親しいガラードと言えど、理解してはもらえないだろう。

 ともすれば屍人(グール)なるものをその目で見た彼でさえ、あれは夢だったようにも思えていた。

 加えて、ロゼの身分にもいろいろと事情があるらしく、公に活動することを嫌っているようだった。吸血鬼事件の調査隊は正式に編成されてはいたが、ロゼをそこに加えるとなると色々と面倒なことになる。だからこそ、アルフォンスはロゼと2人での調査を進言せざるを得なかった。

 だが、やはりガラードの表情はあまり好意的とは言えなかった。

「……アル、俺にはな。お前の親父代わりとしての責任があるんだ。立派な軍人に育ててやりたいし、無意味に危険すぎる仕事をさせたくない」

 アルフォンスはそもそも、正式に編成された吸血鬼事件の調査隊や、警戒のための深夜巡回からは外されていた。彼が今回の事件に拘っていることを、ガラードはもちろん知っていた。だからこそ、深追いして危険に晒されることが懸念されていた。

「……隊長の仰ることは十分に分かっているつもりです。それでも、俺は……この事件には納得のいく形で望みたい」

「……ム……」

 アルフォンスの決意を込めた表情を見て、ガラードは言葉に詰まってしまった。今の彼にあるのは危うさではない。確かな決意と覚悟が感じられていた。

 ガラードは長く考え込んだ末に、諦めたようにため息をついた。

「……やれやれ、お前は本当に親父さんにそっくりだ」

 そう微笑をこぼすと、すぐに上官としての威厳を放って言い放つ。

「事件の解決に向けて最後まで尽力してこい。ただし、調査内容はその日のうちに報告すること」

「おじさ――」

 思わずいつもの調子で呼びそうになり、慌てて気をとりなおすアルフォンス。ガラードはそれを見て少し笑い、「隊長だ」と慣れた返事を返した。

「いいか、決して無理はするなよ。何かあったらすぐに言え」

「――ハッ!」彼の気遣いに感謝を込めて、アルフォンスは恭しく敬礼した。

 

                   ◇

 

「――どうやら首尾よくいったようですね、何よりです」

 吸血鬼事件の最初の被害者が発見された帝都の商店街の一角。建物に囲まれた狭い路地は昼でも薄暗い。アルフォンスがそこへ足を踏み入れると、ロゼが昨晩のようにどこからともなく現れ、合流した。

 昨晩、アルフォンスが屍人に襲われた場所は、新たな被害者の発見現場としてガラード隊の調査が行われている。今日のうちは近づかないほうがいいとの判断で、まず最初の調査場所としてここを選んだのだった。

 彼女は昨晩のような外套や剣を身につけておらず、はたから見れば普通の街娘のように見える清楚なドレスを着ている。

 昼間は吸血鬼や屍人は活動しないため、戦うための装備は必要ないらしい。

 怪しまれないための格好と言われつつも、軍服姿のアルフォンスとの取り合わせはやはり異様であり、人通りの少なさに助けられたなと彼は嘆息する。

 現場には、まだ物々しい雰囲気が漂っていた。被害者の事を考えながら調査をしていると、アルフォンスの頭にある疑問が浮かぶ。

「そういえば…… 今までの被害者は“屍人“などにはなっていなかった。もしかして、それらも君が倒していたのか?」

「いえ、昨夜までは屍人と化す前に《法術》で浄化を行っていたのです。できれば私も、被害者の遺体を傷つけるのは避けたいですから」

 法術――それは七耀教会の一部の人間が使うことができる特別な術なのだという。ロゼの持つレイピアや、アルフォンスが受け取った短剣に屍人や吸血鬼を屠る力を与えたのもその力によるものらしい。改めて教会の関係者なのか、という疑問を投げかけるが、ロゼは「まあそういう風に思っていただければ」と気になる返事をするのみだった。

 ともかく、遺体が屍人と化すのに要する時間は事件が発生する度に短くなっているらしい。昨晩はついに間に合わず、戦わざるを得なくなったのだそうだ。

「まあ、想定通りの結果です。今までもそうでしたから。あなたのような方が首を突っ込んでくるとは、流石に思いませんでしたが」

 くすりと笑われながらそんな風に言われてしまい、肩を落とすアルフォンス。

「と、とにかく……今までの調べで分かったことはないのか?」

 しゃがみ込んで現場を見回しながらアルフォンスが尋ねると、ロゼはこくりとうなずいた。

「今までの被害者たちに残された咬み跡から見て、吸血鬼は男性です。事件は帝都の広範囲で発生していますが、咬み跡の形が共通していることから、一人の犯行の可能性が高いでしょう。それ以上のことは現時点では……」

 ロゼは淡々と並べたてると、そのまま黙り込んでしまった。

「何か、気になることでもあるのか?」思わず尋ねるアルフォンス。

「……ええ。もしかすると今回、帝都に潜んでいるのは――」

 そこまで話した所で、言葉を止めてしまうロゼ。視線は、アルフォンスの肩の向こう側に注がれている。振り向くと、そこには――軍服姿の青年がいた。それは、彼のよく知る人物でもあった。

「エルロイ? なんでこんな所に……」

「それはこっちのセリフだ」

 不機嫌そうに答えた青年――エルロイは、アルフォンスと同じく『ガラード隊』に所属する軍人である。同時期に軍に入り、年齢もほとんど変わらないのだが、2人はことあるごとに衝突していたそれがいつからだったか、アルフォンスも覚えていない。

「わざわざ別動隊を編成して調査していると聞いたが…… 逢引きのためだったとはな」

 嘲笑混じりに嫌味ったらしい言葉を投げつけてきたエルロイ。どうやら、吸血鬼について話していたくだりは聞かれてなかったらしい。アルフォンスは咳払いをしていつもの調子で反論する。

 「……彼女は民間の協力者だ、茶化すのはやめろ。お前の方こそ、こんな所で何をしている?」

「フン、たまたま通りがかっただけだ。あの胡散臭い事件のせいで、巡回範囲が広がってしまってな」

「……口を慎め。この近隣には被害者の遺族たちも住んでいるんだぞ」

 エルロイはアルフォンスの言葉にフンと鼻で笑って答えると、第一の被害者が横たわっていたあたりを冷たい目で一瞥する。

「ハ……何が『吸血鬼事件』だ。帝国軍人ともあろうものが本気にしてどうする。そもそも、そんな事件が起きているのにわざわざ夜道を出歩く方もどうかしている。自業自得だ。まったく仕事を増やされていい迷惑だよ」

「お前な――!」

 エルロイのあまりな言葉に急激に頭に血が上り、食って掛かろうとするアルフォンス。しかしその腕を掴まれ、制止される。隣で話を聞いていたロゼだ。彼女は無表情なまま、エルロイを見もせずにささやく。

「(時間の無駄です。そんな暇があるのでしたら捜査を)」

 あくまで冷静に、辛辣ながらも正論で切って捨てたロゼの言葉に、アルフォンスは頭が急激に冷えていくのを感じた。確かにこんな、つまらない争いをしている場合ではなかった。何としても吸血鬼事件を解決し、自分の過去を清算すると誓ったのだ。ふうと息を整え、懐に入れた銀の短剣の重みを確かめるアルフォンス。

 エルロイはそんなやり取りをみて、つまらなそうに再び鼻で笑うと、

「そこの女もせいぜい夜道に気をつけておけ。軍の仕事を増やしてくれるなよ」

 そう吐き捨てて、その場を去っていくのだった。

 

                   ◇

 

 その後、アルフォンスとロゼは3番目までの被害者の現場を一日かけて捜査したが、新たな手がかりを得ることはなかった。アルフォンスはその結果をガラードに報告した後、宿酒場《アレグリア》に向かう。そこでロゼと今後のことを話し合う約束をしていた。

 夕日が差す中、足を踏み入れると、店内にはちらほらと客が入っており、窓際のテーブル席の一つにロゼの姿を見つけることができた。日が落ち始めているからか、彼女はあの紫紺の外套を再び身にまとっている。恐らく腰にはあのレイピアを差しているのだろう。

「こんばんは。遅かったですね」

 アルフォンスに気づいたロゼが声をかけてくるが、彼は返事を返さなかった。何故か、ロゼの向かいに幼馴染が座っていたからだ。

「どうしたんだ、ルッカ

 その声に振り向いたルッカの目には――今にもこぼれだしそうな涙が溜められている。

「ア、アルくん……! この人と、どういう関係なのぉっ……⁉」

「な、何?」

 わけも分からず、ロゼに視線を向けて答えを求める。彼女はあくまで無表情だ。

「『アルと今後のことを話し合うので、目立たない席を貸してほしい』と申し上げたのですが…… それからずっと、問い詰められてしまって」

 やれやれと首を振ってため息をついたロゼ。アルフォンスはそれを見て、さらに深いため息をついた。

 

 それからアルフォンスは、ロゼが仕事の協力者であることを説明し、何とかルッカの誤解を解くことができた。彼女はよほど安心したらしく、先ほどとは打って変わって元気よく店の奥へと舞い戻っていった。他の客たちから集まってしまっていた注目が離れ始めたところで、2人は事件の今後を話し合うことにした。

 ――吸血鬼が力を発揮する時間は夜だ。昼の間は完全に人間と変わらぬ容姿になってしまい、ロゼですら見分けることは不可能なのだという。見つけ出すには、正体に繋がる何らかの手がかりを掴む必要がある。もしかすると墓地に埋葬された被害者の遺体を調べなおす必要もあるのかと考えて、青い顔になってしまうアルフォンスだったが、遺体については今までにロゼがしっかりと調べたらしい。(そこからは『咬み跡』に関する手がかりしか掴むことはできなかったという)吸血鬼の周到さに、2人は普段人間として暮らしているからこその狡猾さをひしひしと感じていた。

 

 ルッカの持ってきてくれた簡単な料理を食べ終え、明日の調査の段取りを決めたところで、ロゼがふと店の奥に目をやり、ぽそりと何かをつぶやいた。

「……先ほどの方と、大変仲がよろしいのですね」

 最初、アルフォンスは彼女が何を言っているのか分からなかったが、先ほどの出来事を思い出してすぐにルッカのことだと気づく。

「ああ……まあな。10年来の付き合いだ」

 ガラードに引き取られて帝都に来て、最初に住んでいた家はこの店の近くにあった。子供の頃からよく連れてこられて、同年代のアルフォンスとルッカはすぐに仲良くなった。それは、孤独の身になったアルフォンスの心の強い支えとなった。

 アルフォンスはそこまで話して、なんだか照れくさくなって鼻を掻いてしまう。

「……少しだけうらやましいです」

 そう言ったロゼの表情は、今までに見たことのないものだった。無表情に、辛辣に、淡々と物を話す普段の彼女の姿からはかけ離れた、寂しさのようなものが感じられた。

 見かねて言葉をかけようとするアルフォンス。

 

 ――その瞬間。

 ロゼは、唐突にその場に立ち上がった。彼女の太ももに跳ね飛ばされた椅子が床を転がり、再び他の客の目がこちらに向けられる。ロゼはそれを気にも留めず、目を見開いて窓の外を見ている。

「ど、どうした?」

「この気配、間違いありません。近くにいます」

「いる……? 何がだ!?」

「――吸血鬼です!」

 そう言うや否や、店の奥で忙しそうにしていたマスターに駆け寄るロゼ。彼女は、吸血鬼が出たことを感じ取ったらしい。それに気づいて慌てて追いかけるアルフォンス。今まで静けさを保っていたロゼとは違い、その様子はあきらかに尋常ではなかった。「それも」とはどういう意味だ? とにかく、何かまずい事態が起きていることは明らかだった。

「先ほどの方はどこへ行かれたのですか!?」

 ロゼに問い詰められたマスターは何やらさっぱりと言った様子だ。アルフォンスは気づく。そういえばルッカの姿が見当たらない。半刻ほど前に食事を持ってきた後、店の奥に再び消えてから。アルフォンスが補足し、マスターもそれに気づく。

「ああ……そういえば遅いね。さっき向こうの通りの食材屋に買出しを頼んだんだけど……」

 アルフォンスとロゼは顔を見合わせた。途轍もなく嫌な予感がする――2人は言葉も発さないまま、店の外へと駆け出した。

 

第4回 黒き吸血鬼

 

 月に照らされる帝都を、2つの影が走っていた。

 先を走る紫紺の外套をはためかせる影――ロゼは、目をカッと見開いたまま機敏にあたりを見回し、吸血鬼の姿を探す。女性のものとは思えない俊足についていく2つ目の影――アルフォンスもまた、ロゼに倣って辺りを探し回る。幼馴染の少女、ルッカの姿を探して。

 酒場のマスターが言っていた食材屋と、そこへ至る短い道に彼女の姿はなかった。代わりに、禍々しい吸血鬼の気配をロゼが感じ取り、糸を手繰るようにその大本を目指していく。ルッカを探しているのに、吸血鬼の気配を追うことに、2人は何の疑問も感じていなかった。それだけの、途轍もない嫌な予感が、2人をまとっていた。

「きゃああああああああああああ!!」

 つんざくような悲鳴が辺りに響く。同時にアルフォンスは背筋を凍りつかせ、立ち止まる。聞き間違えるはずがなかった。それは、見知った幼馴染の声だ。

ルッカ、どこだ!?」

「匂いは――こちらからです!」

 ロゼは凛とした声を上げると、細い路地の一つに駆け込んでいった。足をもつれさせながらもついていくアルフォンス。もはや息は限界に近いほど上がっていたが、そんなことはどうでもよかった。積まれていた木箱やゴミの山を蹴飛ばしながら進むと、視界が開け、隣の通りに出た。

 

 そこには――何かが立っていた。“それ”は、全身黒ずくめの外套に身を包んだ不気味な格好をしていた。顔面の上半分にまで大きな布を巻いており、両目すら覆い隠してしまっている。唯一露出した下半分の顔はあまりには青白く、その口元には歪んだ笑みが浮かぶ。人間の形をしているように見えるが、アルフォンスの本能がそうではないと告げる。

 

 吸血鬼だ、こいつが。

 

 黒衣の吸血鬼は、手元に弱々しい何かを抱きかかえていた――ルッカだ。アルフォンスがそれを確認すると同時に、吸血鬼はその口を大きく開けた。

 人間のものではありえない、獣のごとき鋭い牙が一瞬だけ見えた。事件の被害者たちの首元、そこにつけられた”咬み跡”がアルフォンスの脳裏に浮かぶ。そして牙は、気を失っているらしい彼女の首もとに、まっすぐと突き下ろされ――

 先行していたロゼは、その場に足を踏み入れると同時にマントの裏側から何かを数本抜き、その全てを迷いなく吸血鬼へと投擲した。アルフォンスに渡したものより、もう一回り小振りなナイフだ。彼女の言うところの“吸血鬼狩りのための武器”だ。それが吸血鬼に向かう何本もの線となる。

 吸血鬼は牙を突き立てる直前、こちらに一瞥をくれると、すんでの所で身を翻してそれをかわした。抱きかかえられていたルッカはその場に倒れこみ、吸血鬼は高く跳躍してアルフォンスの背中側に降り立つ。

 

 あまりにも一瞬の出来事で、アルフォンスの体はとっさに動くことができなかった。真後ろにいる。帝都で連続殺人を起こしている――吸血鬼が。奴は今まさにルッカを毒牙にかけようとしていた。絶対に許さん――! 頭の中を駆け巡る言葉がそこに帰結したとき、ようやくアルフォンスは腰に供えた剣へ手をかけた。振り向きざまに渾身の横薙ぎを放つ。剣は吸血鬼の胸部を通過し、確かな手応えをアルの手に感じさせた。

 だが――吸血鬼はこちらを見て不敵に笑っている。たった今切り裂かれたその胸の傷は、瞬く間に塞がってしまった。次の瞬間、吸血鬼の右の拳が目にも留まらない速度でアルフォンスの鳩尾に放たれる。

「ぐはッ……!!」

 鈍い衝撃と共に肺の空気が全て吐き出される。咄嗟に急所を外すことはできたが、まともに喰らってしまった。アルフォンスはあまりの激痛に、思わず身を屈めてしまう。

「伏せてください――!」

 後方からロゼの声が聞こえてきた。もはや言葉に従うしかなく、膝の力を抜いてその場に倒れ落ちるアルフォンス。彼の頭上すれすれを、レイピアによる神速の突きが通過する――狙いは吸血鬼の心臓だ。

 直前まで笑みをこぼしていた吸血鬼も、その銀の煌きに何か危険なものを感じたらしく、咄嗟に左腕で防御する。

 鋭い切っ先は左腕を貫き、胸部に突きたてられる――寸前に、止まってしまった。

 

 レイピアが串刺しになった左腕からはシューシューと白い煙が上がっており、ついさっきのアルフォンスの攻撃とは全く違う、確かなダメージを与えているようだった。

『……クク、なるほど。貴様が“吸血鬼狩り”…… 屍人どもを封じていたのは貴様の仕業か』

 完全に膠着した場に、吸血鬼の禍々しい声が響く。

『過去に幾人もの同族が滅ぼされたと聞いたが…… まさか貴様のような小娘だったとはな』

「“幾人”? ド畜生が人間気取りとは、世も末です」

 ロゼはいつもよりさらにキツい調子で冗談めかして答えながらも、さらにレイピアに力を込め続ける。

 だが、吸血鬼は腕の筋肉を無理矢理に絞り、それ以上の進行を許さない。

 倒れ伏していたアルフォンスは何とか力を振り絞って、横たわるルッカの元にたどり着く。彼女は気を失っているだけのようだ。痛みに顔を歪めながらも、安心するアルフォンス。

「このまま夜明けが来れば吸血鬼の力は格段に弱まるでしょう。よろしければ、それまでご相伴をお願いしたいのですが」

『……麗しきお嬢さん、嬉しい申し出だが今回は遠慮させてもらおう。貴様たちのせいで今夜のディナーもお預けのようだしな』

 吸血鬼がそうつぶやくと、その輪郭がじわりと歪んだのをロゼは感じた。そして、吸血鬼の体は外側から徐々に、黒い霧へと化し、消えていく。

『吸血鬼狩りのお嬢さん。そしてあまりにも矮小な人間よ。これからも私の食事を邪魔するつもりなら、覚悟するがいい――』

 そう残すと、吸血鬼は完全に霧となり、何処かへと消え去ってしまった。

 

 ――しばらくして、訪れた静寂。

 アルフォンスが胸部に受けた打撲の痛みにも、徐々に慣れてきた。骨折は免れているようだ。気を失っているルッカを背負いながら、アルフォンスはよろよろと立ち上がる。

「倒した……わけじゃなさそうだな」

「身体を霧と化す技は、吸血鬼が操る術の一つです。逃がしてしまいましたが、左腕の回復には時間がかかるはず。今夜はもう、どなたかが襲われることもないでしょう」

「吸血鬼というのはとんでもないな……だが、よかった」

「次は逃がしません。必ず仕留めます―― もう少し強力な武装を準備して」

「……とんでもないな……君も」

 だが、ひとまずの危機は脱した。ルッカを助け、新たな吸血鬼事件の犠牲を未然に防ぐことができたのだ。これも目の前にいるロゼがいなければ成せなかったことだ。

「ありがとう、ロゼ。君のおかげで――」

「お礼など結構です。無意味です」

 私は自分の仕事をしたまでですから、と相変わらず厳しく断じられ、肩をすくめるアルフォンス。

「事件はまだ終わっていません。あの吸血鬼の正体を何としても見つけ出さなければ」

「ああ、そうだな。さっき酒場で話した通り、明日は別の現場を見に行こう」

「ええ、ではまた」

 ロゼはそう言うと、アルフォンスの別れの挨拶も聞かずにさっさとその場を去っていってしまった。あれだけのことがあった割には、あまりにあっさりしているな、とアルフォンスは再び肩をすくめた。

 

 その後、アルフォンスはルッカを家まで送り届けた。

 帰り道、彼の背中で目を覚ましたルッカは顔を真っ赤に紅潮させながら慌てた。今まで気を失っていた彼女の記憶はあいまいで、アルフォンスも詳しく事情を説明するわけにもいかず、「道で倒れていたのを助けた」 「最近働きすぎて疲れてたんだろう」などと誤魔化し、ルッカは何となく納得した。

 彼女を安心させるように笑いながら、アルフォンスは先ほどの戦いのことをずっと考えていた。彼は吸血鬼相手に手も足も出なかったのだ。咄嗟のこととはいえ、渡された銀の短剣の存在をも失念していた。せめてロゼの足手まといにならなかったことが救いだったが、帝国軍人として情けなかった。吸血鬼事件の解決のためにも、次は必ずロゼの力になることを、アルフォンスは心に誓う。

 

 ――ロゼは、一人で暗い夜道を歩きながら、思い出していた。

 吸血鬼の強打を受けて倒れたアルフォンスの姿を。

 危うく命を落とし、屍人と化すところだった彼の幼馴染の姿を。

 そして、思い出したくない“あの光景”を。

 

 「私は、また同じ過ちを犯そうとしているのでしょうか――」

 

 立ち止まって、少しだけ眉をひそめた神妙な表情で、ロゼは月が顔を出す空を見上げるのだった。

 

第5回 別れの挨拶

 

「こいつが『吸血鬼事件』の犯人……か」

 ガラード隊長は、出来上がってきたスケッチを真剣な顔で眺めていた。

 アルフォンスは吸血鬼と遭遇した次の日の朝、ガラード隊長にそれを報告した。

 彼に手渡されたスケッチブックは、アルフォンスの証言をもとに描かれた全身黒ずくめの人物の似顔絵だ。顔の上半分が隠れてはいるが、特徴がしっかりと再現されたこの絵は今後の調査・警戒に大いに役に立つことだろう。

 もちろん、この人物が本当に吸血鬼であることや、彼が霧となって消えたことはガラードにも伏せたままである。あくまで、人々に警戒を呼びかけるために用意したものだ。

 本来なら全てを明かし、万全な対策をとりつつ部隊をあげて捜索・討伐を行うべきなのだろうが――おそらく普通の人間では、あの吸血鬼に太刀打ちすることは不可能だ。それは昨晩、手痛い一撃を受けたアルフォンスが誰より分かっていた。下手に手を出せば、無用な犠牲が出る。そもそも大人数で調査を行えば、身を隠され、帝都から逃げられてしまう可能性もある。確実に吸血鬼を止めるためには、ロゼと自分だけで追っていくしかないのだ。

「とにかく、アル。お前とルッカちゃんが無事でよかった」

 俺にはそれが何よりだ、とガラードは安心したようにため息をつく。

 

 黒ずくめの人物については似顔絵を交えて、迅速に注意が喚起されることになった。人々が夜に出歩くことを控えてくれれば、被害もこれまで以上に減るはずだ。

 ガラードには「怪我もあるし今日のところは休め」と言われてしまったが、ロゼと合流して調査をしなければならないとアルフォンスは告げた。

「くれぐれも無理はしないようにな」

 アルフォンスは、部屋を出る時にガラードがかけてくれた言葉を思い出す。普段は厳しい隊長だが、彼は自分のことを本当の息子のように案じていてくれる。そのことに心の中で感謝し、改めて気を引き締めるアルフォンス。

「絶対に無事に、この事件を解決してみせる」

 そうして、ロゼとの合流場所に向かうために詰所を出ようとしたところで、不機嫌そうな顔をした同僚――エルロイに遭遇した。どうやら朝の訓練を終えてきたらしく、汗を流してはいるが少しも息が切れていない。彼はガラード隊の中でも随一の剣の腕前を持ち、同じだけの訓練を積んでいるはずのアルフォンスや他の隊員たちよりも飛びぬけた実力を誇っている。そこからくる優越感からか、彼は常に他人を見下したような態度をとってしまう。今回もそれは同じであり、顔を見るなりエルロイは不敵な笑みを浮かべた。

「……聞いたぞ、アルフォンス。例の『吸血鬼事件』の犯人らしき人物と遭遇したそうだな」

「まあな」

「情けないヤツだ。その場でそいつを捕まえられていれば今頃事件は解決していただろうに」

 顔を見るなり突っかかってきたエルロイに、アルフォンスは黙り込んでしまう。いつもなら喰ってかかるところだが、今回ばかりは彼の言い分が正しい。自分が力不足でなければ、あの場で吸血鬼を倒すことも可能だったはずだ。そんなアルフォンスの様子を見て、エルロイは勝ち誇ったように腕を組み、鼻で笑う。

「隊長に贔屓されて調子に乗っているんだよ、お前は。これに懲りたらあまりでしゃばらないことだな」

 ガラードを引き合いに出されてさすがに反論に転じようとするアルフォンス――だが、何かを言おうとした所でやめてしまう。腕を組んだエルロイの左腕が、包帯で何重も巻かれているのに気づいたからだった。

「……その包帯、どうした?」

 思わず案じてそれを指差すと、エルロイは一瞬だけ戸惑った表情を見せる。

「何だ、急に……別に、大したことじゃあない。さっきの訓練で誤って怪我をしてしまっただけだ」

 包帯には薄く血が滲んでおり、新しくついた傷なのは間違いなさそうだ。

「フン、お前のそういうところが気に入らないんだ」

 突然身を案じられて調子が狂ってしまったらしく、エルロイはバツが悪そうに舌打ちしながらその場を後にした。それを頭を掻きながら見送るアルフォンス。

 彼にとって、もともとエルロイはそこまで悪感情を感じる相手ではなかった。なのに一体、いつからこんなことになってしまったのか、アルフォンスには分からないのだった。

「やれやれ……」

 こんなことを考えていてもしかたない。ともかく吸血鬼事件に集中しなければならない。気を引き締めなおしたアルフォンスは、そのまま詰所の扉を開けてロゼのもとに向かった。

 

                  ◇

 

 先日に引き続き、4番目の被害者が発見された現場で、アルフォンスとロゼは合流した。しばらくの間そこを調査していたが、やはり吸血鬼に繋がる手がかりは見つけられない。そこで、何やら考え込んでいた様子のロゼが、昨晩まさに吸血鬼に遭遇した通りに行ってみることを提案し、アルフォンスもそれに賛成した。

 

 昼間のその通りは、あの静まり返った夜とはまた違った印象になっていた。談笑する婦人たちや、露店を眺める老紳士などが見られ、むしろ賑やかですらある。吸血鬼事件は夜中にしか起きていないため、人々もこの時間帯は安心して生活しているようだ。

 あまり目立たないように配慮しつつ、並んで通りを行き来しながら、手がかりを探すことにする2人。

「しかし、こんなところで吸血鬼と戦ったんだな…… どうにも現実味がない」

「そもそも吸血鬼などという存在自体、現実味がないものですから。それを狩る使命を持つ私も、さらに現実味がない存在と言えてしまいますね」

 もっともらしいことを言って、少しだけ口の端を持ち上げるロゼ。

 ……今のは冗談だったのだろうか? どう反応していいかわからず、無言になるアルフォンス。そんな思いを知ってか知らずか、ロゼは気にせず昨晩のことを検証し始める。

「あの吸血鬼がまとっていた匂いは、今までの被害者から感じた匂いと同じものでした。やはりあれが帝都で起きている『吸血鬼事件』の犯人と考えて間違いないでしょう」

「匂い……か」

 そういえば、追跡していたときにそんなことを言っていたなとアルフォンスは思い出す。

「なら、それを辿っていけば吸血鬼の正体に辿りつけるわけだな」

「いえ、前にも申し上げましたが吸血鬼が力を発揮するのは夜です。日が出ているうちは彼らも力を発揮できませんが、匂いも消えてしまいますね」

 できれば力を発揮できないうちに叩くのが理想だが、正体に繋がる手がかりは今のところない。ここに来て『吸血鬼狩り』の難しさを再認識し、アルフォンスは思わず唸ってしまう。

「ですが、昨晩接触することができたのは大きな進歩です。激しい戦いが行われれば、何かしら手がかりが残されている可能性は高いはず。もしかしたら、あの方も何かを目撃していたかも――」

 あの方――ルッカのことだろうか。そう考えたあと、ぴたりと立ち止まるアルフォンス。並んで歩いていたロゼがついてきていない。振り向くと、彼女も立ち止まっていた。その顔は、いつもの無表情ではあったが、少し俯いてなにかを悔いているようにも見える。

「どうした?」

「――いえ、なんでもありません。とにかく、手がかりを探しましょう」

 

 それから2人はしばらくの間、その通りを調べた。ロゼの提案で一旦、二手に分かれて別々の場所を調べ、再度合流して考えをまとめてみたが、先日と同様、吸血鬼の正体に繋がる手がかりを得るには至らなかった。

 日も落ち始めており、レンガの街並みに夕焼けが合わさって濃い赤色になっている。

「これだけ調べて収穫なし、か。……くそ」

 吸血鬼は徐々に力をつけてきている。ロゼと吸血鬼の実力は、今のところ拮抗している。昨晩はなんとかルッカを救い出せたが、今後被害者が増えていけば、太刀打ちできなくなるほどに強くなってしまう可能性もあるだろう。急がなくてはならないのに、と舌打ちするアルフォンスを、無表情で見ているロゼ。

「焦っても仕方がありません。今は互いにやるべきことをやりましょう」

 そうだな、と苦々しくうなずくアルフォンス。本日の調査結果を報告しなくてはならないので、ロゼとは一旦ここで別れることになった。

 そして、昨日と同じく酒場で合流しようと提案したが――ロゼは、それを断った。

「今日は私も教会の方に用があるのです」

「そうか……できれば気配を探れる君と、また張っておきたかったんだが」

 昨日の今日だし、今のところ事件は毎夜のように起こっているのだから、警戒は必要だ。ロゼもそれは分かっているらしく

「こちらの方で気をつけておきますから」と告げ、

「では、明日またお会いしましょう。さようなら」

 と深くお辞儀すると、そのまま立ち去ってしまうのだった。

「……なんだ……?」

 アルフォンスは彼女の態度に妙な違和感を感じていた。だが、その正体は結局分からず、ただ彼女の後姿を見送るしかないのだった。

 

                  ◇

 

 夜――ガラードへの報告を終えたアルフォンスは、酒場に向かっていた。ロゼとの合流の約束はなくなってはいたが、昨日吸血鬼に襲われたばかりのルッカの様子を見に行っておきたかったのだ。

「あ、アルくんっ。いらっしゃいませ」

 店に入った彼にいち早く気づいたルッカは、空いたカウンター席にアルフォンスを案内する。

 昨夜の勘定をしていなかった食事代をマスターに渡していると、ルッカがいそいそと注文をとりに来る。思いのほか元気そうな彼女の様子に、ひとまず安心するアルフォンス。

 彼女の命が、食事などという名目で軽々しく奪われようとしていたのだ。そう考えると、怒りがこみ上げてくるアルフォンス。

「ええと、アルくん? ど、どうしたのかな」

 おずおずとかけられた声に、アルフォンスは自分が深刻な表情をしていたことに気づくと、誤魔化すように出された料理を口へ運ぶ。そうして心を落ち着けて、安心させるように笑みを向ける。

「すまない……。なんでもないんだ。それより昨日の夜のことで、何か思い出したことはないか?」

「うぅん……ごめんね。わたしも思い出そうとしてはいるんだけど」

 念の為聞いてみたが、やはりだめか。

 出くわした吸血鬼の姿がよほどショックで、記憶が混乱しているのだろうとロゼは言っていた。ルッカから吸血鬼の正体を掴むのは難しそうだと考え、ふう、とため息をつくアルフォンス。

 その間も、アルフォンスの役に立ちたい、なにか思い出せないかと考えを巡らせていたルッカ。彼女は少し間をおいてから、突然「あっ」と声をあげた。

「あの、昨日じゃなくて今日のことなんだけど…… さっき、あの人がお店に来てたよ、一人で」

「……あの人?」

「ほら、アルくんと一緒にいた、あの」

 まさか――ロゼ? 彼女は店には来ないと言っていたはずではなかったか。教会の方に用事があるから、と。何か、胸にざわめくものを感じるアルフォンス。

「ええとね、なんだか色々、昨日のことを聞かれて。結局その時も何も思い出せなかったんだけど…… 何だか納得したみたいでね。そのまま『さようなら』って、すぐに帰っちゃって」

 

 ――『さようなら』。

 

 その言葉を聞いて、ハッと目を見開くアルフォンス。ロゼとは何度か別れの挨拶を交わしたが、今までは『ではまた』という言葉で締められていた。しかし今日、あの通りで別れた彼女も『さようなら』と言っていたのだ。アルフォンスはそのことに違和感を感じたのだと気づく。

 そして彼女は一人でこの店に来て、ルッカから何かを掴んだ。吸血鬼を狩る使命を持つ彼女は、次に何をしようとする?

 アルフォンスは、皿に乗った料理を半分以上残し、勘定のミラを乱暴に置く。

「ア、アルくんっ!?」

「釣りはとっておいてくれ!」

 昨日に続いて、2度目の『いやな予感』――

 アルフォンスは全速力で店を飛び出し、日の落ちかけた街へ走り出た。

 

第6回 血塗れのロゼ

 夜の帝都は、しんと静まり返っていた。

 日中、帝都の治安を守るガラード隊から『吸血鬼事件』の犯人と思われる人物についての通達があった。具体的な犯人の特徴が伝わり、人々の事件への恐怖がさらに高まるとともに、事件への警戒心も高まった。この夜の静寂は、訪れるべくして訪れるものだった。

 そんな、世の動きとは逆行するかのように――薄暗く、人気のない夜道を、女性と思しき小柄な影が歩いていた。

 装飾のあまりされていないドレスを着た、中流階級の娘といったいでたちで、静まり返った街にコツコツと靴音を響かせながら、早足でどこかへ向かっている。

 身体を抱くようにして小さく丸まった背中は、どことなく恐怖に怯えているように見える。実際、若い女性を中心に全身から血を抜かれ、殺されると言う猟奇的な事件が起きているのだ。彼女が怯えたような足取りになってしまうのも、無理からぬことだろう。

 女性はキョロキョロと注意深く辺りを見回しながら、さらに暗い路地へと足を踏み入れていく。月明かりの淡い光に照らされ、彼女の足から後方へと伸びた影。

 その影が、静かに、ゆっくりと膨張し始める。膨張した影は歩く女性の後ろにぴたりとくっついたまま、徐々に立ち上がっていく。

 そうして影は、音もなく――人の形を成す。

 全身を黒衣で身を包み、顔面の上半分をも覆った禍々しい姿。怪しく笑みを浮かべた口元には、鋭い牙が覗く。

 吸血鬼。伝承の中の存在でしかなかったはずのそれは、もはや完全にこの場に顕現していた。影と同化した黒衣の中から、青白い手がゆっくりと現れる。それはことさら静かに、女性に向かって伸びていく。鋭く尖った黒い爪が、肩まで伸びた金髪を静かに搔き分け、首筋に触れる――

 ――その瞬間、吸血鬼は爪の先端から全身に駆け巡るような何かを感じ取った。

 それはまさしく“殺気”である

これから全身の血を吸われて命を落とし、憐れな屍人へと変貌することを運命づけられたか弱い生物から、放たれるはずのなかったものであった。

 危険を感じた吸血鬼は一瞬で飛びのこうとするが、真横から新たな殺気が飛来し、それを逃すまいと襲い掛かってくる。足元の敷石を破壊する音と共に、伸ばされていた吸血鬼の右腕はずたずたに切り裂かれた。

『グッ……!』

 吸血鬼は思わず呻き声をもらす。

 銀色に煌めく鋭い刃――弧を描きつつ連続で飛来したそれが、つぎつぎと右腕を通過したのだ。だが、それで終りではない。地に突きたてられた無数の刃は更なる凄まじい殺気を発する。次の瞬間、それらは地面から凄まじい勢いで発射され、先ほどの軌跡をなぞる様に弧を描く。今度こそ右腕を切断されようとするその寸前に、吸血鬼はかろうじてその場から飛び退く。

 ぼろ衣のようになって煙を噴出しつづける右腕を押さえつつ、女性との間合いを計る吸血鬼。無数の刃たちは、女性の前方――いつの間にか携えられていた柄だけの剣――に向かっていく。頑丈な鉄線でつながれていた刃が次々と段々重ねになり、やがてそれは一振りの剣の姿になった。

 不可思議な剣――法剣(テンプルソード)と呼ばれるそれを振り、ついた血が払われる。剣を持つ彼女にはもはや、先ほどまでの夜闇に怯えたか弱さは感じられない。

 ゆっくりと振り向くと、金髪の向こう側に凛とした無表情の顔立ちが見える。

 吸血鬼狩り――ロゼ。

『おびき出されたということか。クク、見事な手並みだ』

「お褒め頂き光栄です」

 ロゼはそう言いながら、右手に法剣を構えたまま、即座に懐から何かを取り出す。白銀に輝く大口径の拳銃――軍で使われているものよりさらに巨大な、化け物のような銃だ。

 狙いを吸血鬼の眉間に定め、その引き金が容赦なく引かれた。火薬の炸裂によって発生する轟音。常人なら肩が外れるような凄まじい衝撃をロゼは難なく受け止めると共に、教会で祝福を受けた銀の弾丸が放たれた。

 しかし吸血鬼は一瞬早くそれをかわし、今度はロゼの後方へ回りこむ。

 隙なく反応し、常に照準を吸血鬼に向けるロゼ。

「逃げることだけはお上手ですね」

『ならば、これではどうだ?』

 吸血鬼はそう言うと、黒衣を大きく翻す。それはもともとの質量を無視して膨張し、その下から呻き声をあげる虚ろな屍人(グール)が這い出てくる。その数は、5、6、7――段々と増えていき、10に届くほどとなる。

 昨晩の戦闘からまだ1日と経っていない中、これだけの人間を襲う時間はなかったはずだった。

「――なるほど。あなたは今まで人々の血を吸いながら、同時に捜索届けの出されない身寄りのない人々をさらっていたのですね。そして、今までどこかへと閉じ込めていた」

『ご明察だ。“吸血鬼狩り”の存在は知っていたのでな。万が一にも食事ができない場合の“備蓄”とさせてもらっていたわけだ』

「吐き気を催します」

 ロゼは静かに言うと、身にまとっていた変装用のドレスを引っ張り、強引に破り捨てた。すると、その下から――頑丈な皮の素材で作られた動きやすい服装――所々にベルトが装飾され、巨大な銃やナイフといった対吸血鬼用兵装を至る所に備えつけた、戦闘用の服が露になる。

 先ほどよりさらに高められたロゼの殺気に、吸血鬼は邪悪な笑みを浮かべた。

『ゆけ――』

 合図とともに、屍人たちが一斉にロゼに向かっていく。

 

                  ◇

 

「はあはあ……どこだ、ロゼ!?」

 アルフォンスは、酒場を出てから帝都を走り回り、ずっとロゼの姿を探していた。

 だが、深夜の巡回をする同僚たちは誰も、その姿を見かけていなかった。

 アルフォンスにはこの事件を追う理由がある。両親が殺された事件に、何らかの区切りをつけるために。だからこそロゼに、吸血鬼狩りの協力を申し出たのだ。だが、彼女はおそらく一人きりで吸血鬼と戦おうとしている――危険すぎる。どうしても惨殺された両親の遺体が脳裏に浮かんでしまう。

 あんな光景はもう見たくない――走りながら強く念じるアルフォンス。そんな彼の耳に、ある音が聞こえてきた。

 ――戦闘の音だ。そう直感して辺りを見回すと、視界に入った路地の一つがその大元だと確認する。アルフォンスは迷わず路地に飛び込み――その凄絶な光景を目の当たりにした。

 

                   ◇

 

 最初に飛び掛かってきたのは2体の屍人だ。ロゼは法剣を鞘に収めると、代わりにもう一丁の大型拳銃を取り出す。人間の限界を無視した強烈な拳と爪を鼻先でかわすと、二丁拳銃をそれぞれ屍人の眉間に向け、同時に引き金を引く。凄まじい衝撃に頭部が破壊され、もんどりうって吹き飛ぶ屍人たち。

 体勢を崩したロゼに追い打ちをかけるように、死角からさらに3体の屍人が襲い掛かる。ロゼはそれを音だけで聞き分けると、そちらを見もせずに拳銃の照準を合わせ、そのうち2体の頭を正確に打ち抜いた。

 攻撃を免れた残り1体が獰猛に開いた口でロゼの頭蓋骨を嚙み砕こうとするが、彼女は体勢を整えながら持っていた拳銃を素早くしまうと、おもむろに前方に転回し、刹那、引き抜いていた法剣で屍人を股下から両断する。

 そのまま絶妙なバランスで着地すると、たった今切り裂いた屍人が倒れるのを待たずに真横に蹴り飛ばす。そして、向こう側から迫ってきていた更に2体の屍人に向かって横薙ぎに法剣を振る。勢いのままに刀身は分裂し、無数の刃が屍人たちの喉を通過した。2つの頭が果物のように刎ねられる。

 瞬く間に7体を戦闘不能にしたロゼは身を翻し、不敵に笑う吸血鬼と残り3体の屍人を双眸に捉える。彼女は再び腰に携えた二丁拳銃を抜き、残りの弾丸を掃射しながらそちらへと疾走していく。

 吸血鬼は屍人を盾にしてそれをかわしていく。やがて弾丸を撃ちつくし、屍人の全てを倒したことを確認したロゼは弾装の空になった二丁の銃を投げ捨てると、勢いのままに再び法剣を引き抜いて、吸血鬼の首を飛ばそうと横薙ぎに降りぬく。

 甲高い金属音が鳴り響いた。金属と金属がかち合う音だ。

 吸血鬼が黒衣の中に携えていた剣を抜き、ロゼの法剣を受け止めたのだった。鍔迫り合いとなった剣の接点からちりちりと火花が上がり、昨晩の戦いをなぞるかのような膠着状態となる2人。

『あそこまで容赦なく屍人を倒してのけるとはな。あれと対峙した人間は、少なからず動揺して動きを鈍らせるものだが』

「私にとって屍人は、吸血鬼に操られる憐れな人形でしかありません。魂がもはや失われている以上、ためらう理由もないでしょう」

『クク、面白い。さすがは“吸血鬼狩り”と言ったところか』

 金属がこすれる音があたりに響く。吸血鬼は屍人となった彼らから血を吸ったことで、昨晩より明らかに力を増している。先ほどボロ布のようになった右腕はすでに回復し、元の形状を取り戻していた。しかし“吸血鬼狩り”としての全力を出したロゼも、決して力負けはしていない。両者の力はやはり、拮抗していた。

「――うおおおおおおおッ!!」

 そこへ叫び声と共に現れたのは、軍服を身にまとった青年――アルフォンスだ。不意をついたアルフォンスは、ロゼに渡された短剣で吸血鬼の横腹を斬りつける。

 使い慣れない武器での攻撃は浅く、致命的なダメージにはならなかったが、均衡を破るには十分と言えた。

 生まれた隙を見逃さず、力任せに吸血鬼の剣を打ち払ったロゼは、流れるような連撃に繋げていく。空いた胸元から左腕に向かって一直線の横薙ぎが放たれると、吸血鬼の身体から血しぶきが上がった。

 そのとき、黒衣の内側からなにかが千切れて飛んでいく――。

 吸血鬼は胸を押さえてうずくまったが、どうやら法剣は薄皮一枚を裂いただけだったらしい。凄まじい体捌きだ。再び間合いを取った吸血鬼は舌打ちをして、こちらに剣を構える2人を交互に見やった。

『……流石に分が悪いか。退かせてもらうぞ』

 そう言って、その輪郭をぼやけさせると、一瞬でその身体を霧と化して、そこから消え去っていった。

 

「また逃げられてしまったか……」

 アルフォンスは短剣を懐にしまい、吸血鬼のいた位置を見つめる。ロゼは、そんなアルフォンスを見やると、ため息をついて呆れた。

「……どうして来てしまわれたのですか?」

 無表情のロゼにそんな言葉をかけられ、思わずカッとなって彼女の肩を掴むアルフォンス。

「どうしてだと? 君のほうこそどうして一人で戦った!? 危険すぎる!」

「危険……だったと本気で思いますか?」

 ロゼは無表情に――いや、今までに見せたことのない、圧倒的なまでに冷たいものを孕んだ――そんな顔で、アルフォンスを見つめた。

 アルフォンスはハッと我に返り、今のロゼの姿を改めて見直す。

 彼女は、真っ赤に染まっている。月明かりがそれを照らしてはっきりと確認できる。肩に置いていた手を離して掌を見ると、そこにもぬらりとしたものがついていた。

 ロゼ自身は傷一つ負っていなかった。それらは全て、屍人の中に残っていた濁った血液だ。

「私は仮にも”吸血鬼狩り”を名乗る身です。今まで、どれだけの吸血鬼や屍人を葬ってきたか――あなたには想像もできないでしょう」

 アルフォンスは確かに見ていた。容赦なく屍人たちを葬り去るロゼの姿を。人の形をした相手に容赦なく武器を振るい、鮮血と共に舞い、踊るように戦う彼女を。あきらかに次元が違っていた。あれは――化け物同士の戦いだ。それを肌で感じていたからこそ、あんなタイミングまで介入できずにいたのだ。

 完全に言葉に詰まってしまったアルフォンスを見て、ふ、と冷たく笑うロゼ――

 

 「――アル、あなたの協力はもはや必要ありません。どうぞ、全て忘れて元の日常にお戻りください」

 

 彼女はそう言って、最初に会った時のように恭しくお辞儀をした。

 

第7回 決別

 

 ――あなたの協力はもはや必要ありません。

 

 ロゼの凄まじい戦いぶりを思い出していたアルフォンスは、その言葉を呆然と受け止めることしかできなかった。

 反論はいくらでもあった。吸血鬼の正体はまだ分かっていない。それを突き止めるために帝国軍に所属する自分と協力を結んだはずだ。

 「吸血鬼の正体なら、昼の時点ですでに掴みました。ですから、あなたにお願いすべきことはもうないのです」

 考えを見透かしたように、あっさりとロゼは言う。

 正体を掴んだ――? 唐突すぎるその言葉に戸惑うアルフォンス。一緒に捜査をしていたのに、彼女だけが吸血鬼の正体を突き止めたことに疑問を覚える。……いや、常に一緒にいたわけではなかった。今日にしても、最後は二手に分かれて捜査をしていたのだから、ありえない話ではない。

「た、例えそうだとしても…… 俺にはこの事件を追う理由がある! あっさりと引き下がるわけにはいかない!」

 ロゼにもすでに話したことだ。幼少の頃、両親が殺された事件――もしかしたら今回の『吸血鬼事件』はそれに関係している可能性があるのだ。

 ロゼは、そんなことは分かっていると言わんばかりにため息をつくと、まっすぐと、冷徹な目でアルフォンスを見つめる。

「では、直截(ちょくさい)に申し上げます――足手まといです」

 刃物のように鋭利な言葉に胸を抉られ、何も言えなくなってしまうアルフォンス。

「この場を見ればご理解いただけるはずです。世俗の方が関われる領分をとうに越えていると」

 辺りに倒れた、頭蓋を砕かれ、首を刎ねられ、全身を銀の弾丸で射抜かれた屍人――いや、もはやボロボロの、ただの人間の遺体となった者たちを指して彼女は言った。

 再び先ほどの戦いがアルフォンスの脳裏に浮かぶ。もし、早い段階であそこに介入していたとしても、きっと彼にはなにもできなかった。それどころか、ロゼの邪魔になっていた……そんな光景が容易に想像できてしまう。

 俯いてしまったアルフォンスに、ロゼは少し遠い目をして語る。

「私は過去にも――世俗の方と協力して吸血鬼を追ったことがあります。強く協力を申し出られ、私はそれを受けることにしたのです」

 アルフォンスはそれを聞いて、顔を上げて驚く。以前にも自分と同じことをした者がいた――?

「――協力者(その方)は殺されました。追っていた吸血鬼にです。そして正体の分からないまま、その吸血鬼はどこかへと姿を消しました」

 それは”吸血鬼狩り”を生業とする彼女にとって最悪の結末であったろう。

「私の過去の仕事の中でも、最大の汚点です。もう一度同じ過ちを繰り返すわけにはいきません。ですから今回、あなたとは明確に一線を引かせていただきました。現場を円滑に操作できるよう取り計らってもらう、求めていたのはただそれだけです。そういう意味では、“協力”というよりは“利用”と言った方が正しいでしょう」

 そして、それは上手くいった。ロゼは独自に正体を掴むことができ、尚且つ、吸血鬼の容姿が手配されたことはこの上ない成果であった。おかげで一般人が夜に出歩くことを控え、上手く自分に吸血鬼をおびき寄せることができた、感謝しています――そう冷淡に続けられたことだけ、アルフォンスは理解した。

 語り終えたロゼは、一息ついてから――

「もともと交わるはずのなかった世界が、偶然に交わった。あなたは偶然そこに出くわしてしまった。それだけです。だから、忘れてください。なにより吸血鬼狩り(わたし)に必要なのは“孤独”なのですから――」

 そう言って再び自嘲気味な笑みを浮かべると、身を翻して歩き出す。アルフォンスは、その言葉を、ロゼの表情を見て、どこか違和感を覚えた。

 しかし、彼にはロゼを呼び止めることはできなかった。2人の間には、越えることのできない見えない壁のようなものが確かにあった。

「後のことはお任せください。これ以上の深入りはなきようお願いします――さようなら」

 こちらを振り向かずにはっきりとそう言うと、ロゼはそのまま夜闇の中へと消えていった。残されたアルフォンスは、血の海の中、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 

                  ◇

 

 翌朝――帝都の一角で10体もの身元不明の遺体が発見され、現場は今までにない喧騒に包まれていた。ガラード隊長の指揮で軍人たちが忙しなく行き交い、凄惨な現場を覗き込もうとする野次馬たちが押し寄せている。最近は別動隊として行動していたアルフォンスも、今回ばかりは正式な調査隊に加えられ、同僚の軍人たちとともに調査を行っていた。

 検死が行われている遺体たちは、ロゼによって激しく損壊していたはずだったが、なぜかそれらの痕跡は一切見あたらなかった。残されていたのは、吸血鬼の咬み跡だけだ。

 アルフォンスだけがそれを不審に思っていたが、すぐさまロゼが教会のどこかしらに属していたことを思い出した。そちらに彼女の元々の仕事仲間がおり、何かしらの工作が行われたのだろう。吸血鬼と戦える武器を精製するような技術があるのだ、遺体の修復くらいやれてもおかしくないのかもしれない。アルフォンスは非現実的な想像をする自分に、思わず乾いた笑みを浮かべてしまう。

 ロゼは、やはり現場には現れなかった。アルフォンスとの協力関係は昨晩限りで終わった、それに偽りはないのだろう。吸血鬼事件はこのあと、彼女によって秘密裏に解決されていくことになる。伝承でしかない吸血鬼の存在も公になることなく、誰も知らないところで。

 ――本当にそれでいいのだろうか。

 アルフォンスの心の中に、一つの疑念が引っかかっている。

 それは、別れ際に彼女が一瞬だけ見せた表情だ。

 

 なにより吸血鬼狩り(わたし)に必要なのは“孤独”なのですから――

 そんな言葉と共に見せた、諦めたようなロゼの笑み。

 ただ、冷徹なだけではない、何か……“寂しさ”のようなものを感じた気がしたのだ。

 “孤独”。あらためてその言葉を反芻するアルフォンス。

 過去に両親を失ったアルフォンスにも突然訪れた孤独。

 何の見返りなく己を優しく包み込んでくれる存在がいない、寂しさと恐怖。

 それは容易に人の精神を蝕み、病ませていく。

 だが、父の友人であったガラードに引き取られ、ルッカのような大切な人たちと出会うことで、自分はそこから救われた。人は、一人で生きていくことはできないのだと、アルフォンスはこれまでの半生で痛いほどに理解していた。

 “孤独”が必要だと言ったロゼ。それは彼女の本心なのだろうか? もしかしたら、彼女にも何か事情があるのではないか? 

 かつての自分と同じ“孤独”を抱える者を、アルフォンスはどうしても気にかけてしまう。

 

 そして、決意する。やはり、このままでいいわけがない。ロゼに突き放されたからと言って、自分のやるべきことは代わらない。両親が殺された過去の事件を清算するためにも。どんな危険があっても、たとえ彼女の足手まといになったとしても、関わり続けなければならない。

 アルフォンスは頭を振って、昨晩から滞っていたもやもやとしたものを、無理矢理払いのけた。散漫になっていた集中を取り戻し、捜査にがむしゃらに没頭していく。そうすることが、ロゼと同じ立ち位置に立つ唯一の方法である気がしたからだ。

 

 やがて、その現場には夕焼けが差し始めた。10体の遺体が運び出され、野次馬たちもそのほとんどが撤退していった。大勢の調査隊による捜査にも一区切りがつき、その日は撤収することになったが、アルフォンスは一人、黙々と現場を調べ続けた。

「アル、いい加減詰所に戻るぞ」

 ガラードの気遣う声が聞こえるが、アルフォンスは振り向きもせずに捜査を続ける。

「……すまない、おじさん。もう少しだけやらせてくれ」

 この現場は昨晩、ロゼと吸血鬼が激しい戦闘を繰り広げた場所だ。その最中に何か、重大な手がかりが残された可能性は十分にある。調査隊全員で一日中捜査をしても、それはまだ見つかっていなかった。だが、絶対に何かがあるはずだ。アルフォンスはそう確信していた。

 ガラードはその様子を見ると、やれやれと口の端を持ち上げる。

「まあ、気の済むまでやれ。あまり根を詰めすぎないようにな」

 そう言って、隊員たちと共に心の中で礼を言いつつ、再び捜査を続行することにした。

 

 それから更に半刻ほど経ち、夕日も沈み始めた時――もはや現場の全てを調べつくしていたアルフォンスの目が一点に注がれた。

 建物と建物の隙間、捜査の死角となっていた場所に、何かが落ちている。

 そういえば、昨晩の戦闘でロゼが剣による一撃を加えた時、吸血鬼は何かを落としていた……それを思い出す。

 隙間は、アルフォンスの片腕がぎりぎり入る程度のものだ。必死で手を伸ばし、人差し指と中指で何とかそれを挟み込み、取り上げることに成功する。

 

 それは、細長い長方形の布切れだった。アルフォンスはそれをためつすがめつ眺める。薄汚れて鼠色になっている。おそらく元々の色は白かったのだろう。切り口からロゼの剣で切り離されたものには違いなさそうだが、それはあくまで何の変哲もない、ただの布切れに見えた。

 ――だが、それは他の人間が見たとすれば、だ。アルフォンスの感想は違った。それを見たとき、彼は全てを理解した。

 

 ロゼが突然に彼との決別を宣言した理由――

 そして、帝都を恐怖に陥れた、吸血鬼の正体を。

 

第8回 正体

 

 帝都の夜に、再び真っ赤な月が出ていた。妖しくも不気味な、深紅の満月。それは数日前よりもさらに色濃く輝き、緋のレンガの町並みを染め上げている――まるで、血のように。

 吸血鬼事件による10人もの被害者が発見されたことを受け、この夜、ガラード隊の隊員たちによる深夜の巡回が強化されていた。

 これ以上の被害者を出すわけにはいかない。ことは帝国軍の面子にかかわる問題である。そんな思いを胸に隊員のほとんどが出払い、担当するルートを各々が巡回していた。

 その中でも、特に薄暗い一角――宿酒場《アレグリア》から道一つ離れた通りに、軍服の青年がいた。彼は不機嫌そうな顔をしつつ、もはや夜中に出歩く者のいなくなったそこを巡回している。

 ふと――彼の前方の曲がり角から、人影が現れた。

 それを見た青年は警戒し、腰に携えた剣の感触を確かめる。人影は青年に近づいて、徐々にその姿を明らかにしていく。

 それは青年と同じくらいの歳の同僚――アルフォンスだった。その双眸は、静かに青年の姿を見据えている。

「フン、お前か」青年はあからさまに不快そうに舌打ちをした。

「持ち場はどうした。ここは確か、俺の担当だったはずだが」

 アルフォンスに明らかな敵意の眼差しを向けてくる青年。だが彼は、その瞳で青年を捉えたまま、「――お前に、聞きたいことがある」と、懐から何かを取り出す。

 アルフォンスが持っているのは、薄汚い布切れだ。「なんだ、それは?」怪訝な顔で尋ねる青年。

「昨日の夜、吸血鬼が現れた現場に落ちていたものだ。これはお前のものだな――エルロイ」

 青年――エルロイにそう言い放つアルフォンス。当のエルロイは至って普段通りに、彼に冷たい視線を返す。

「言っている意味が分からない。その布が何だというんだ? それに、吸血鬼だと? 仮にも帝国軍に属する者が、何を世迷言を」

 そう鼻で笑う。しかしアルフォンスはあくまで真剣だ。

「これは、お前が訓練で怪我をしたと言っていた――左腕に巻かれていた包帯だ」

 その一部が昨晩の戦いで切り離され、捜査の死角に入りこんでいた。そうつづけるアルフォンス。ロゼによって、とまでは言わなかった。それはエルロイも知っているはずの事実だったからだ。

 それを聞いたエルロイは、軍服の袖の下に隠れた左腕を押さえ、隠すような姿勢をとる。

「……そもそも、ガラード隊随一の剣の腕を持つお前が、日常的に行っている訓練でそんな怪我を負うこと自体が不自然だった。いや、けがを負ったこと自体は事実だろう。包帯には真新しい血が滲んでいたからな。おそらくそれは、レイピアによって貫かれた傷を偽装するためにわざと負ったものだ」

 エルロイはそれを聞いて黙り込んだ。いつもなら、すぐさま何かしらの反論を返しただろう。だが彼は、黙った。眉間に皺を寄せ、苛立った目でアルフォンスを睨みつけている。

「もちろん、昨晩のうちに包帯は新たなものに取り替えられただろう。だが、だったらなぜ、この包帯は現場に落ちていた? お前は今朝の調査には加わっていなかったはずなのに」

 それは、公にエルロイが吸血鬼だと証明できるような証拠ではなかった。そもそも伝承の存在であるそれを立証することはできない。

 だが、あの時、あの場所にエルロイがいたことを示す証拠にはなる。吸血鬼の存在を知るアルフォンスにとっては、それで十分だった。

「……俺も、信じたくはない。同じ部隊に所属するお前が…… 誰よりも優秀なお前が、吸血鬼として人を襲ったなんてことは。」

「…………………………………………」

 なにも返事をせず、沈黙したままのエルロイは、ゆっくりと俯いたような姿勢になる。

「だが、帝都を守るガラード隊の一員として、これ以上の犠牲は出させるわけにはいかない。反論がないなら、重要参考人として拘束させてもらう――

「……………………………………………フ」

 エルロイが全身から力を抜いたような姿勢から、そう息を漏らした時――場の雰囲気が急激に重くなったのを、アルフォンスは感じ取った。

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」

 一気に体を仰け反らせて高笑いするエルロイ。

 普段、物静かな彼では考えられない、深淵から這い出てきたような禍々しい声が、夜の街に響き渡る。裂けそうなまでに大きく開けられたその口元に、アルフォンスは見た。

 あの、獣のように鋭い――吸血鬼の牙を。

 

 腰の剣に手をかけるアルフォンス。刀身と鞘が擦れ合う音を鳴らしながら、すばやくそれを引き抜き、構える――だがエルロイは仰け反らせた身体をバネのようにしならせ、こちらも剣を抜きつつすでにアルフォンスに肉薄していた。

 右側の筋肉を軋ませ、棒切れを振るうような動作で力任せに剣を叩きつけるエルロイ。あまりの速度に、それを防ぐことしかできないアルフォンス。

 激しい金属音とともに、その身体は持っていた剣ごと後方に吹き飛ばされた。凄まじい膂力――それは、自分が胸部を殴打された数日前よりも格段に増している。もしあの時同じ力で殴られていたなら、彼はすでにこの世にいなかっただろう。

 かろうじて立ち上がり、痺れた手で持っていた剣の感触を確かめるが、すぐさま吸血鬼エルロイは剛剣にて追撃をはかる。

 身体の重心を落として何とか受け止め、上手く捌いて衝撃を受け流す――だが、それで手一杯だ。とても攻撃に転じる余裕はなく、アルフォンスは防戦一方になってしまう。エルロイは何度防がれても構わず、間髪いれずに剣を叩きつけていく。

「急いたな、アルフォンス! 吸血鬼が夜に力を発揮するのを、知らぬわけではあるまい!」

 確かに日が昇るのを待っていれば、少しは勝負になったかもしれない。

 だが、アルフォンスは待つわけにはいかなかった。この夜にも新たな犠牲者が出たかもしれないのだ。それを知りながら安穏と勝機を待てるほどの非情さは、彼にはなかった。

 彼の握力が限界を迎えたのはそれからすぐのことだった。重い一撃で剣が弾かれ、回転しながら敷石の上を滑っていく。

「終わりだ、アルフォンス!!」

 エルロイはそのまま剣を翻し、右腕に渾身の力を込める。次の瞬間、それはアルフォンスの首へと振りぬかれるだろう。

 弧を描いて宙を舞う、自分の首のイメージが鮮明に浮かぶ。

 

 刹那、音が聞こえてきた。幾つもの、空を切り裂く甲高い音が――そして、今まさに振り抜かれようとしたエルロイの右腕が――消失した。

 あたりに鮮血が撒き散らされる。エルロイの右腕は剣を握ったまま、アルフォンスが思い浮かべたイメージの如く弧を描いて宙を舞い、地に落ちた。

「ぐぁっ!?」

 失った右腕を押さえながら、本能で後方へ飛び退くエルロイ。アルフォンスの目の前には――無数の刃が鉄線に連なった不可思議な剣――法剣(テンプルソード)の刀身が、赤い月が輝く夜空からまっすぐに伸びていた。

 刀身は再び空を切り裂く音を鳴らして、鉄線をしならせながら夜空へと戻っていく。それと入れ代わるようにして、その場に可憐な人影が舞い降りた。

 紫紺の外套に身を包み、同じ色のベレー帽を被った女性――。外套の下は様々な武器で固めた戦闘服を身につけている。彼女は肩までの金髪をはためかせつつ、持っていた法剣についた血を振り払うと、アルフォンスに呆れたような顔で一瞥をくれた。

 膝を突いたまま、彼女に向かって薄く笑みを浮かべるアルフォンス。

 

「遅かったな、ロゼ――」

 

第9回 愚か者

 

「吸血鬼狩り……現れたか……!」

 吸血鬼エルロイは、歯軋りをしてロゼを睨みつける。法剣によって落とされた右腕はシューシューと赤い煙を上げていた。ロゼはアルフォンスに向けていた顔をそちらに向きなおし、無表情のまま法剣を構える。

 じりじりと間合いを保ちつつ、両者は次の一手を探って膠着する。

 こちらを見ないそのままの体勢で、ロゼは口を開く。

「――これ以上は関わるな、と申し上げたはずです。なのに……一人で吸血鬼と戦おうとするなんて。あなたがここまで愚かだったとは思いませんでした」

 若干怒気を孕んだその声に気圧されつつも、アルフォンスはよろよろと立ち上がる。

「先に一人で戦おうとしたのは君のほうだ。それに俺は、最初からそんなつもりはなかった」

「え……」

「――賭けていたんだ。君が来てくれることにな。そして、君は来てくれた。最初に会ったときと同じように」

 その言葉は、ロゼにとってあまりにも意外だったらしい。彼女は背中越しでも分かるほどに動揺しつつも、すぐに剣を構えなおして冷静さを取り戻す。

「意味が……わかりません」

「……君が俺との協力関係を解消した一番の理由は、用済みになったからとか、足手まといになったからとかじゃない。きっと、俺をこれ以上巻き込みたくなかったからだ…… 過去に君が犠牲にしてしまった協力者のように」

「……それは、あなたの勝手な解釈です」

 あくまで冷徹に言い捨てるロゼ。だがアルフォンスには確信があった。

「なら、どうして”吸血鬼の正体を突き止めた”なんて嘘をついた?」

「……! ……気づいていたのですね……」

 考えてみればおかしかったのだ。

 吸血鬼が本来の力を発揮するのは夜であり、正体を突き止めて日が出ているうちに倒すのが理想――ロゼはそう言った。だが昨夜の彼女は自らを囮にするという危険な方法で吸血鬼を呼び寄せたのだ。合理的でないし、彼女らしくない。

「多分君は、調査を進める中で何らかの事実に気づいた。詳しくは分からないが、このまま俺が協力していては危険だと判断した君は、早々に俺を遠ざけるために、あんな噓をついたのだろう」

 ロゼは無表情のまま、答えなかった。それは逆に、彼の言葉を認めたことを意味していた。

「フン……何をゴチャゴチャと!」

 2人に対峙する吸血鬼エルロイは、目を見開いて力を集中し始めた。すると――今まで右腕から上がっていた赤い煙が消え、代わりにどす黒い液体が断面から泡立ち始める。切断され、地面に落ちていた右腕からも同様に――そして、それらの液体は一気に噴出し、互いを求めあうようにくっつけていく。

「いけない……!」

 ロゼが何かに気づいて素早く法剣を薙ぐ。伸長した無数の刃が液体を切り裂くが、すぐに元通りに復元していく。そして、それは急激に右腕を引き寄せ、切断面同士を結合させた。境目に泡立っていた液体が治まるころには、エルロイの右腕は完全に元通りになっていた。

「法剣のダメージをこんな速度で…… やはり、この吸血鬼は――

「ハアアアアアッ!」

 エルロイは右腕に握られたままの剣に力を込めると、一直線にロゼに向かっていく。

 ロゼはあくまで冷静に、法剣の刀身をエルロイに向けて再び射出させる。伸びきった刀身はすばやく絡みついていき、その身体を引き裂きながら捕縛していく。

 だが、エルロイは完全に拘束される前に、一瞬で持っていた剣ごと霧に姿を変える。法剣の無数の刃は空を切り、霧は四方へと散る。そして、ロゼの左後ろの死角から現れて、再び剣を振りぬいた。

 完全に虚を突いた攻撃は、ロゼを頭から両断してしまうはずだった。

 しかし、咄嗟に間に入ったアルフォンスが、拾い上げていた剣で受け止める。

「クッ……!!」歯を食いしばり、死に物狂いで踏ん張るアルフォンス。

 力では完全に勝っていたはずのエルロイだが、死力を尽くした防御を崩すことはできなかった。

「ッ……どこまでも目障りな!」

「アル!」

 その隙に乗じて、ロゼは逆手で大型拳銃を引き抜いてすぐさま引き金を引く。弾丸はエルロイの肩口を射抜き、彼を後方へと退かせた。

 陣形が入れ代わり、ロゼを背にしたアルフォンスは再度、剣を構えなおす。

「――ロゼ、俺は決して死なない! 吸血鬼になど、殺されない! だから――」

「なんですか、こんな時に!」

 ロゼはアルフォンスの肩を補助台として、エルロイに狙いを定めて大型銃を連射する。肩の傷をすでに修復したエルロイは、その全てをありえない速度で避けつつ、再びこちらに肉薄する。弾丸は撃ちつくされ、もう一丁を構えなおす暇はなかった。

 勢いのまま、2人をまとめて切り捨てようとするエルロイの剛剣。アルフォンスはそれに向かって、渾身の力で剣を叩きつけた。凄まじい衝撃が発生し、アルフォンスの剣は真っ二つに砕けてしまう。

 仕掛けたエルロイも弾かれる。だがこのまま膂力に任せて再び剣を振り下ろせば、今度こそアルフォンスとロゼは絶命するだろう。勝利を確信した吸血鬼は口の端を持ち上げる――

 しかしそれは次の瞬間、驚愕に歪んだ。己の剣が砕けることを予測していたアルフォンスは、すでに懐から取り出したものを握り締めていた。ロゼから渡された――銀の短剣を。

「だから! 君を決して“孤独”にはしない!!」

「――――――!」

 そう叫びながら振り下ろされた短剣。銀色の一閃はエルロイの身体を、一直線に切り裂く。

「ぐああああああっ!?」

 たまらず、大きく退いたエルロイ。深くつけられた袈裟斬りの傷は、心臓を紙一重で外したものの、これまでで最も痛烈なダメージを彼に与えた。

「なぜ俺が、あいつ如きに……! おのれ、おのれッ……!! おのれおのれおのれおのれ、おのれぇええええッ……!!」

 エルロイの顔には凄まじい憎悪と苦悶の表情が刻まれている。その油断こそが一撃を喰らう要因になったことに、彼は気づいていない。もはや人間を装っていたころの面影はどこにも感じられなかった。

 一方のアルフォンスも、今の攻撃で力を使い果たしたらしく、息を切らして膝を突く。そんな彼を、ロゼは不思議な面持ちで見つめていた。

 彼は自分の“孤独”を受け止めてくれようとしている。過去に協力者を死なせてしまったことで抱えてしまった、巨大な”孤独”に気づいて。

 君を決して孤独にはしない――さきほどの言葉が何度も。頭の中に響く。

 何の根拠もない、ただの感情の塊のような言葉だったが、それはロゼの冷え切っていた心に暖かなものをもたらしていた。

「……ふふっ、あなたという人は…… 本当に度し難い、愚か者なのですね」

 今まで無表情を貫いていたロゼが、自然な笑い声を漏らした。アルフォンスは思わず振り返る。

「――でも、嫌いではありません」

 そこにあったのは、今までの無表情だった彼女からは、まったく想像できない――女神のような慈愛にあふれた微笑みだった。

「な、なんだそれは……」

 アルフォンスは見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて前に向き直る。視界に入ったのは、いまだ動き出さないエルロイの姿だ。

 そうだ、和んでいる場合ではなかった。あの吸血鬼に――エルロイにとどめを刺さなければ。

 もう一度向き直り、ロゼと顔を見合わせて頷きあう。

 ロゼは力を使い果たしたアルフォンスを残して、エルロイのもとに歩き出す。彼は放心状態で俯いたまま、ぶつぶつと何かをつぶやいている。その頭に、ロゼは照準を合わせる。あとは引き金を引けば、事件は解決だ。「……………………?」ロゼはふと、引き金を引く指を止める。

 何か途轍もない違和感を感じていたのだ。

 

「匂いが……消えた――」

 

 ――突如、俯いていたエルロイは、ぐりんとロゼに顔を向ける。

「そうだ、俺が負けるわけがないんだ。もっと血を吸いさえすれば、アルフォンスなどに――」

 そこに浮かんでいた焦点の定まらない瞳と凄惨な笑みに、思わずたじろいでしまうロゼ。次の瞬間、彼の袈裟斬りになった傷口から、凄まじい勢いで赤い霧が噴出した。

「こ、これは……」

 霧は瞬く間に周囲を包み込み、その一帯の視界は完全な赤に支配された。「ロゼ、なんだこれは!?」アルフォンスの声だけが聞こえてくる。

「大丈夫、害はありませんから落ち着いてください!」

 吸血鬼が苦し紛れに使うことがある、自分の傷を利用した目くらましだ。

 今まで経験からそれを知るロゼは、視界から消えたエルロイの匂いを辿る。彼女には吸血鬼の気配を匂いとして察知する力がある。こんな目くらましなど何の意味もなさない――はずだった。

 吸血鬼の匂いはどこにも感じられなかった。目の前にいたはずなのに。

 なぜ――? 予想外の事態に困惑するロゼ。

 やがて、赤い霧は徐々に晴れていった。

「くっ……なんてことだ……!」

 その場に残っていたのは――アルフォンスとロゼの2人だけだ。

 エルロイはいない。まんまと逃げられてしまった。一体どこへ? アルフォンスは少しだけ取り戻した体力でようやく立ち上がる。

「ロゼ! 奴の気配を追ってくれ! でないと……」

 おそらくエルロイは、新たな血を吸いに行った。また犠牲者が出てしまう。彼が更なる力を手に入れたら、果たして太刀打ちできるのか?

「待って下さい、今、追っていますから……!」

 ロゼもまた、アルフォンスとは別の懸念に囚われていた。なぜ急に、あの禍々しい匂いが全く感じられなくなってしまったのか? こんなことは、今までなかった。自分の力が弱まったのか?

 様々な要因を考えていると、今度は唐突に吸血鬼の匂いが復活した。

 再び困惑するロゼ。本当に訳のわからない事態だが、とにかく今はエルロイを追跡しなくてはならない。

 精神を集中して再び匂いを辿る――。

 

 ロゼは吸血鬼の匂いがどこにあるのか、それをようやく突き止めた。そして、驚愕した――。

 

「吸血鬼の匂いは……あの酒場の方角です!」

 

 宿酒場《アレグリア》は、この通りから道一つしか離れていない。

 アルフォンスは、鬼気迫る表情で走り出した。

 

第10回 闇への追走

 

 宿酒場《アレグリア》。普段なら、顔なじみばかりで席が埋まっているはずの深夜の時間帯。しかし今夜は吸血鬼事件に関係する伝達がされた影響か、ただの一人も客はいなかった。

 ここで従業員として働くルッカは手持ち無沙汰に店内の掃除をしていたが、それも一通り終えてしまい、カウンター席に退屈そうに座っていた。

 彼女の幼馴染、アルフォンスも今日は来なかった。今夜はガラード隊の隊員たちが総出で帝都を巡回しているという噂だから、きっと彼も忙しくしているのだろう。

 少し残念な気持ちになってしまい、憂鬱にため息をつくルッカ

 カウンターの向こう側で食器を拭いていたマスターは、そんな彼女を見て穏やかに笑うと、

「今日はもう帰っていいよ、最近何かと物騒だから」と声をかける。ルッカもそうしようかと考えていた矢先――静まりかえった店内に軽快な音が鳴った。正面玄関に備え付けられた、客が訪れたことを知らせる合図だ。

 ルッカは慌てて椅子から立ち上がり――息を吞んだ。店の入り口に立っていたのは、血塗れの軍服姿を着た青年だったのだ。

「きゃあっ!」短い悲鳴を上げて駆け寄るルッカ

 見慣れた服装に、ルッカは一瞬幼馴染のことを思い浮かべたが、明らかに別人であることを確認して思わずホッとしてしまう。

 その顔には見覚えがあった。ずいぶん前、アルフォンスが軍に入ってすぐの頃に、彼の誘いで店を訪れたこともある青年。今ではどうしてか険悪な仲だと聞いていた。

 確か、名前は……エルロイ。

 マスターが慌てて救急箱を取り出し、駆けつけて気遣うが、彼は反応を一切示さない。その瞳はまっすぐにルッカを睨みつけていた。

「アルフォンスの幼馴染――俺と共に来てもらうぞ」

 ぼそりとそう呟くと、エルロイは途轍もなく邪悪な笑みを浮かべた。

 

                  ◇

 

 アルフォンスとロゼが駆けつけた頃には、店内は酷いありさまになっていた。

 倒れ転がる椅子。砕かれ木片と化したテーブル。粉々になった食器やグラスがばら撒かれ、カウンターの影にこめかみから血を流したマスターが倒れていた。

 ロゼは落ち着いて、教会に伝わる法術でマスターの治療を試みる。不可思議な力によって怪我が塞がり、目を覚ました彼に、それまで呆然と立ち尽くしていたアルフォンスが問い詰める。

「しっかり、一体何があった!?」

 ――ルッカの姿がどこにもない。それが彼の心をざわめかせた。

「……軍服の若者が来て……いや、あれは、化け物だった。抵抗、したんだが…… そいつが、ルッカちゃんをさらっ、て……」

 マスターはかろうじてそう言うと、再び気を失ってしまった。

 

 近くを巡回していた隊員がようやく現場に駆けつけ、辺りは騒然としていた。寝静まっていた近隣の住民たちまでもが徐々に集まり始める。間もなくガラード隊長も到着し、少人数でマスターへの事情聴取と現場の捜査が行われていた。

 アルフォンスとロゼは、そこから少しだけ離れた建物の陰にいた。

「――エルロイッ……!!」

 声を荒げ、思い切りレンガの壁を殴りつけるアルフォンス。そのまま怒りに打ち震える彼を見つつ、ロゼは、腕を組んで何かを考えこんでいた。

「……落ち着いて下さい。まだルッカさんは無事のはずです」

 エルロイは、怪我の回復と自身の力を増すために新たな血を求めていた。ルッカの血を吸えば目的は果たされたはずなのに、彼はそうせずに、ただ連れ去った。おそらく、アルフォンスたちを何処かへおびき寄せるために。

「彼が向かったのは、おそらく――」

 確信を持ってロゼは指差す――自分たちの足元を。

 前回のエルロイとの戦闘で、彼は無数の屍人(グール)を呼び出した。それらは、捜索届けの出されない身寄りのない者たちだった。エルロイは彼を密かに連れ去り、どこかに“備蓄”していたのだ。おそらく、未だに何人もの人々が。

 それだけの人数を閉じ込めておける広大なスペースでありながら、普段は人が足を踏み入れず、見つかる可能性の低い場所。

 条件を満たすのは、数百年前の《暗黒時代》の遺構――帝都の下に広がる地下道。そのどこかにエルロイがいるはずだ―― そう語るロゼに、すぐに向かうことを提案するアルフォンス。一刻も早く見つけなければ、ルッカの身が危険だ。しかしロゼは目を伏せて黙ってしまう。

「……何か、気がかりでもあるのか?」

「ええ、2つほど……まず、あのエルロイというお方は“高位の吸血鬼(エルダーヴァンパイア)”である可能性が高いでしょう」

 吸血鬼と呼ばれる一族の、正当な血統――それは“神祖”と称されている。“神祖”の一族は、長いゼムリア大陸の歴史ですでに失われたらしいが、より近い血を持つ者たちは“高位の吸血鬼”と呼ばれ、今もどこかに潜んでいるという。

 彼らは十数年に一度訪れるという血への渇望に従うまま、歴史の裏で数多の犠牲者を出しているのだ。

 それは吸血鬼狩りのロゼにとって、最大のターゲットと言って過言でない相手だ。

 彼らは、吸血鬼の中でも特別に飛びぬけた力と成長性を持つ。例えば最初にルッカが襲われた時、彼女は”魅了”と呼ばれる高等な術を使われて人気のない所へと連れ出されたらしい。人の思考をある程度操るという恐ろしい術――ロゼは、襲われる前後の記憶を失っていたルッカを見て“高位の吸血鬼”の存在に気づき、アルフォンスを遠ざけたのであった。

 敵がそんな強大な力を持っていることが、気がかりの一つ。

 そして、もう一つの気がかりも、それに関係することである。

「”高位の吸血鬼”の強大な力は、夜になればさらに増幅されます。それゆえに、その気配を完全に絶つことはできないはずなのです」

 ついさっきの出来事だ。エルロイの放っていた強烈な気配が、目くらましと共に完全に絶たれた。その予想外の事態に、ロゼは止めを刺す機会を逸してしまったのである。

「彼はただの“高位の吸血鬼”ではないのかもしれません。あるいはもっと強大で、凶悪な何か――」エルロイはその全貌をまだ現していない。そんな状態で、罠と知りながらみすみす追跡してもいいものかを、ロゼは計りかねていた。

 やはり、アルフォンスを連れて行くべきではないのかも――そんな考えに至った彼女を見透かすかのようにアルフォンスはすぐさま口を開いた。

「ロゼ、何度も言わせるな。俺は死なない。君に孤独をもたらさない。相手がどんなに強大であろうとその誓いは決して違えない」

 揺るぎない一本の芯が通った言葉。孤独な者を決して見捨てないという、彼の信念から紡ぎ出された真っ直ぐな言葉に、ロゼは一瞬だけ寂しい目をする。

 ――彼女には、もう一つだけ言っていない秘密があった。

 それこそが、彼女の抱える“孤独”の大部分を成す要因――アルフォンスに再び温かい言葉をかけられ、思わずこの場でそれを吐露しそうになる。……しかし今はその時ではない。今の自分には、彼のこの言葉だけで十分なのだ。彼の大切な幼馴染を何としても救う。そのことに集中しなければ。

「私としたことが、まだ迷っていたようです」

 そう言って気持ちを抑え込んだロゼは、おもむろに腰に手をやる。

 法剣と反対側に携えられていた長剣――に手を伸ばしたのだ。ベルトに固定していた留め金を外すと、それをアルフォンスに手渡した。

「折れた剣の代わりです。あなたにはそちらの方が使いやすいでしょう」

 アルフォンスはその重みを確かめながら、少しだけ刀身を引き出す。赤い月の光を反射する白銀――まごうことなき、吸血鬼を滅ぼすための輝きだ。

元々アルフォンスには扱いづらいであろう短剣を渡したのも、彼が積極的に戦闘に介入できないようにするためだった。

 だがアルフォンスは一度として退かなかった。彼の心意気を侮っていたことへの謝罪と、再び協力を結ぶという証。2つの意味を込めて、その剣は渡されたのだった。

 アルフォンスは力強くうなずき、その白銀の剣を自分の腰に携える。

 2人は再び顔を見合わせる。

 地下道――そこにルッカはいる。必ず救い出してみせる。若き軍人と“吸血鬼狩り”は深い闇の中へ走り出した。

 

                  ◇

 

 帝都の脇には、アノール河と呼ばれる広大な河川が存在する。そこに面する形で建設されたヘイムダル港――その一角に、地下道への扉はあった。

 普段は安全のため封鎖されている扉を強引にこじ開け、アルフォンスとロゼは意を決して侵入する。内部にはアノール河に繋がる水路が引き込まれており、その水の流れが静寂な暗闇の奥深くへと続いているのが分かる。

 かつて《暗黒時代》に建設された地下都市の遺跡はあまりに広大で、その全容は計り知れない。一切の整備がなされていないまま打ち捨てられた仄暗い空間は、まさに暗闇の迷宮ともいうべき様相を呈していた。

 アルフォンスとロゼは、わずかに差し込む赤い月の光だけを頼りに水路沿いを進み、吸血鬼エルロイの気配を辿っていく。あの時一度途切れた“匂い”は、今また凄まじい緊張を深奥から漂わせている。

 注意深く進んでいくと、ついに差し込んでいた月の光も途切れてしまい、辺りは完全な闇に包まれる。だがそれは短い間のことで、少し進むと壁に小さな松明が次々と立てかけられ、道を淡く照らしていた。

「やはり、以前からここを隠れ処にしていたんだな」

 とすれば、エルロイにさらわれていた身寄りのない者たちも、このどこかにいるはずだ。そう考えたアルフォンスだったが、ロゼは目を伏せて静かに首を振る。

「どうやら……手遅れだったようです」

 前方の闇の中に何かを見つけたのだ。こちらにゆっくりと迫ってくる、いくつもの影。屍人と化した人間――だ。ルッカの血を吸わずに連れ去ったエルロイだったが、その補填は彼がこの場所に“備蓄”していた人々によって果たされてしまったらしい。

 この屍人たちの中にルッカがいなかったことに少しだけ安堵したアルフォンスだが、もちろん彼女の安全は保証されているわけではない。エルロイがアルフォンスたちをおびき寄せるためには、彼女が生きている可能性だけを提示すればよいのだから。

 もはや一刻の猶予も許されない。白銀の長剣を引き抜くアルフォンス。ロゼはすでに法剣と銃を構えた戦闘態勢だ。

「行きますよ!」

「応!」

 掛け声とともに、2人は屍人の群れに雪崩れ込んだ。

 ――初めてまともに対峙する屍人たちとの戦いは、アルフォンスの心を著しく消耗させた。彼らはあくまで吸血鬼の被害者でしかない。その生命を奪われたばかりか、人を喰らうなどというおぞましい禁忌を、無理矢理に破らされているのだ。

 受け取った剣は、そんな彼らに安息を与えるためのものだ…… 理解していても、斬りつけただけの傷を心に負うのを感じていた。

 ロゼは舞うように武器を操り、次々と彼らを倒して道を開いていく。少しだけ進むとまた新たな屍人が現れ、彼女の舞いの相手となる。

 彼女は今まで、こんな痛みをたった一人で背負い込んできたのだろうか。絶望的なまでの孤独だ。何が彼女をそんな場所に追い込んだのか、アルフォンスは知りたかった。

そのうえで、何か力になれることを探してやりたいと思った。だが、今はその時ではない。

 アルフォンスは心の痛みに耐えながら、がむしゃらに剣を振るい、前へと進む。

 

                  ◇

 

 壁の松明を道標に、複雑な地下道を駆け抜けるアルフォンスとロゼ。数十体の屍人をなぎ倒し、体力と精神を削りながら進撃を続け――

 やがて2人は、開けた場所にたどり着いた。

 水路が傍にあるためか湿り気のある灰色の土に、規則的に並べられた十字架。かつての暗黒時代のものだろうか、風化しかけたそれらは今にも崩れ落ちそうなほど古びている。数本の松明だけで照らされたそこは――古の地下墓所(カタコンベ)というべき場所だった。

 暗き地下道の中にあってより一層陰気な気配に包まれるその場所――その中央に、軍服の上に黒き外套を着込んだ男がひっそりと立っていた。

 ここまででかなり疲弊していたアルフォンスはロゼにその半身を預けつつも、その姿を捉えると大声でその名を呼んだ。

 

「エルロイ!!」

 

 地下の全てに反響して響いたかのようなそれにも動じず、男は黒き外套を翻して振り向いた。禍々しい緊張が辺りを包む。

 

「よく来たな――」

 

 薄い笑みを浮かべた口元には、数多の生命を吸った血塗れの牙が覗いていた。

 

第11回 地下墓所の決闘

 

 ロゼは、エルロイの振り向く一動作から冷静に分析した。先ほどの戦闘で与えたダメージは全て修復されていることを。それどころか、比べ物にならないほどにその力を増していることを。

 

地下道にいた数十体もの屍人を生み出す過程で取り込まれた血液の量――それを想像すれば、当然の結果だった。さらに恐ろしい怪物となった彼がどれだけの力を有しているのか、今やロゼにも計りかねていた。

「エルロイ――ルッカをどこにやった!?」アルフォンスが叫ぶ。

「さて、どこだろうな……力ずくで聞き出してみるがいい」

 エルロイはつまらなそうにそう言うと、おもむろに黒き外套から腕を伸ばす。そして、天に向けて掌を掲げる。

 エルロイの指先から、地下墓所全体を覆うような圧倒的な力の波が迸る。そして、すぐにそれは治まった。

「なんだ……?」意味不明の事態に警戒するアルフォンス。

「いけない!」ロゼは直後の出来事を直感し、すぐさま戦闘態勢をとった。

 ぼごっ。何か、底が抜けたような鈍い音が響く。十字架が置かれた場所の地面から、白っぽいものが生えていた。

 ――人間の手の骨だ。アルフォンスがそう気づいた瞬間、彼とロゼを取り囲むように立っていた他の墓からも、連続してそれが生えてきた。ひじの部分で折れ曲がったそれは地面をぐいぐい押しはじめ、続けて土の下で蠢いていたその身体が土埃を上げながら一斉に姿を現す。

 それは、過去にここに埋葬された亡骸だった。

 死者の屍を揺り起こし、下僕として操る術――

 これも“高位の吸血鬼”のみが使える高等な術だ。

 骸骨たちは各々が盾や兜、斧や剣を統一性なく装着している。おそらく、この地下道にいくつか存在するであろう墓地の中でも戦で命を落としたものたちばかりが埋葬された場所だったらしい。取り囲まれ、ロゼと背中合わせになって剣を構えるアルフォンス。

「ハハハハハハ、なんと素晴らしい力だ! ハハハハハハハ!」

 恍惚とした表情で高笑いを上げるエルロイ。骸骨たちは今のところ、微動だにしていない。植えつけられた本能に従う屍人とは違い、吸血鬼の意のままに動く正真正銘の人形だ。

「やれ」という合図とともに、骸骨たちが一斉にアルフォンスたちへ押し寄せた。全方位から各々の武器が振りかぶられる。どう考えても防御できる物量ではなかった。

 寸前、ロゼは背中越しにアルフォンスの肩を叩いた。彼はすぐにその意味を理解して、武器が振り下ろされようとする中、素早くしゃがんだ。

 入れ替わりに飛び上がったロゼの身体は、上半身が大きく捻られている。そのまま体の左側に回していた右腕を、捻った上半身が戻る勢いのまま振りぬく。

 彼女が握り締めているのは、投信の消失した法剣(テンプルソード)の柄だ。

 一瞬あと、ロゼたちを中心として時計回りに、延びきった刀身が飛ぶ。それぞれ隊列の一番前で武器を構えていた骸骨たちの頭が次々と砕け、その後ろにいた骸骨まで巻き込んで吹き飛ぶ。

 生まれた一瞬の隙をついて、しゃがんでいたアルフォンスが駆け出す。一直線に、白骨の海の向こうに立つ吸血鬼、エルロイのもとへと。

 立ちはだかる骸骨だけを白銀の剣で斬りつけ、殴って蹴って、投げ飛ばす。鍛えた肉体に任せた強引な進撃だったが、着実にエルロイへと近づいていく。

 残ったロゼは敵を自分に引き付けつつ、法剣と銃を器用に使い分けて戦う。時折できた一瞬の隙間を縫って、エルロイの死角にいる敵を重点的に倒していった。

「どうしてだ、エルロイ! なぜお前は、こんなことになってしまった!?」

 骸骨を砕いて進みながら、アルフォンスは胸を絞めつけられる思いでいた。

 数年前、帝国軍に入ったばかりの頃のことが思い出される――。

 ――エルロイは、もともと貧しい暮らしをしていた孤児だった。そんな中、ガラードによって剣の腕を見出されて帝国軍にスカウトされたのだという。

 かつて両親を殺されたアルフォンスと、孤児であり家族を知らないエルロイは、ある意味似た境遇を抱えていたと言える。互いにガラード隊長によって、そこから救われたという所も同じだった。

 2人は互いにシンパシーを感じ、軍では良き好敵手として互いを高めあう関係になった。

 それはいつしか理由も分からないまま険悪なものになってしまったが、アルフォンスにとってガラード隊随一の剣の腕を持つエルロイは、今でも尊敬すべき相手だった。さんざん嫌味を言われ、理不尽に冷たい目を向けられても、彼にとっては間違いなく友人だった。

 彼には今でも信じることができない。

 エルロイが、吸血鬼だったなどと。

 何の罪もない人の命を非情に奪い、糧とした挙句に弄んだなど。

 目の前に立ちはだかった最後の骸骨を強引に退け、ついにエルロイへの道が通じる。

「おおおおおおおっ!!」

 アルフォンスは駆けながら、白銀の剣を振りかぶる。

 それを見て、薄笑いを浮かべたまますらりと剣を抜くエルロイ。その夜何合目かの、剣と剣がぶつかりあう金属音が響き渡った。

「俺は、絶対に止めるぞ……お前の友として!」

「……笑わせるな!」

 アルフォンスの剣を片手で受け止めていたエルロイ。凄まじい膂力のままに剣を返し、アルフォンスの腕は後方に弾かれる。

 だが彼はその勢いを利用し、一回転して更なる横薙ぎを加える。

 エルロイはそれを、素手の指先で受け止める。

 銀の刀身に触れた指が焼け付いて煙を上げるが、エルロイは歯牙にもかけていない。それどころか更に力を込めると、刀身に小さくヒビが入り始める。

 その表情は、今までの勝利を確信した余裕の笑みではない――憎悪の形相だ。

「何が友だ! お前は俺の、大切なものを奪おうとしたくせに!」

「!?」 その言葉に虚を疲れたアルフォンスは、エルロイのもう片方の腕から振り下ろされた剣への反応が遅れてしまう。

 左の肩口から腹部にかけてを引き裂かれ、血が噴出る。

「ぐあっ……!」「――アル!!」ロゼの声が響く。

 すでに、アルフォンスが作ったエルロイへの道は無数の骸骨たちに塞がれている。

 彼女が骸骨を引き付けて戦う以上、とても援護に来れる余裕はなさそうだった。大丈夫だ、傷は浅い――そう示すように、アルフォンスは機敏に身をよじって、後方に間合いを取る。そうして、剣の感触を確かめるように構えなおす。

「くっ……何のことだ!? 俺が、何をした!!」

「黙れ! もはやお前には贖罪の暇(いとま)すら与えん!!」

 間髪いれずに、剣の連撃を加えてくるエルロイ。

 アルフォンスも応戦するが、先ほど受けた傷もあって完全には捌ききれない。横腹に、太ももに、右腕に、全身に、確かなダメージを受けていく。

 流れる血にふらつきつつも、なおも剣を構えるアルフォンス。もはや体力もほとんど尽きている。彼を支えるのは、気力だけだ。

 猛攻を加えていたエルロイも息が上がっていた。その口元に再び、勝利の笑みが浮かぶ。

「安心しろ、寂しくはない。吸血鬼狩りの女も、あの酒場の娘も、すぐに同じ所に送ってやる」

 ピクリと体を震わせるアルフォンス。満身創痍となりながらも、強い意志を湛えた瞳でエルロイを見据える。

「……エルロイ、お前が俺にどんな恨みを持っているかは分からない。だが……殺されてやるわけにはいかない。約束したからな」

「何を言っている……?」エルロイの顔から再び笑みが消える。

「エルロイ、やれるものならやってみろ。俺は覚悟をすでに決めている。死なないという覚悟を。そして、お前を必ず止めるという覚悟を――!」

「訳のわからないことを……!!」

 エルロイは激昂し、両手で剣を構えた。そこに禍々しい気迫が渦巻いている。今までで最大の一撃が放たれることを、アルフォンスは悟った。

「今度こそ終わりだ!!」

 絶大なる膂力に任せて剣が振り下ろされる。向かってくる絶対的な死――アルフォンスは、それを防がなかった。銀の剣を前に構えたそのままの姿勢で、真正面から受けたのだ。

 さきほどと同様に、左の肩口から深く侵入していく刃。それは鍛えられた筋肉を骨もろとも、チーズのように切り裂いていく――はずだった。

「なっ――!?」

 エルロイが見ていたのはありえない光景だった。

 彼の渾身の力を込めた刃は、左肩の鎖骨両断したところで完全に制止していたのだ。

 アルフォンスは防御を捨てたわけではなかった。攻撃をその身に受ける覚悟を決めたことで、極限まで集中力を高めたのだ。そして己の肉体に刃が侵入した瞬間に、急激に筋肉を硬直させ――刃を止めた。

 およそありえない、思い浮かべていた勝利の光景とあまりに食い違うそれは、エルロイを激しく動揺させた。アルフォンスはその隙を見逃さなかった。

「おおおおおおおおっ!」

 激痛をものともせずに刺突の構えをとる。エルロイは左肩に食い込ませた剣の柄を振りほどかれ、完全なる無防備になる。

 そして――銀の剣の切っ先が、真っ直ぐに――エルロイの胸を貫いた。

 

 ――乾いた音とともに、ロゼと対峙していた骸骨が崩れ落ちる。縦横無尽に骸骨との戦闘を繰り広げていた彼女が動きを止めた。

 状況を即座に理解してアルフォンスの方を振り向くロゼ。

 そこには、胸に突きたてられた剣が今まさに引き抜かれ、その場に膝から崩れ落ちていく吸血鬼の姿があった。

 

 アルフォンスが左肩に刺さったままの剣を引き抜くと、血が一気に噴出る。左肩を手で抑えるが、傷口は深すぎた。なおも血は止め処なく流れ続けた。

「無理、しすぎたか……」

「本当ですよ、まったく」

 呆れたような声とともに、傷口を温かい感覚が包んでいくのを感じる。駆けつけたロゼが法術によって怪我の回復を行っているのだった。

「こんなことをしていては命がいくつあっても足りません。本当に愚かです。そこに莫迦と阿呆を足しても釣りがきます」

 言葉とは裏腹に、ロゼの顔は安堵に満ちている。流石に心配をかけすぎたらしい。アルフォンスはそれを反省しつつ、みるみる塞がっていく傷を眺めていた。体力まで戻すことはできなかったが、ひとまずの応急処置にはなっただろう。

「……ぅぁ……」そこに――小さく呻くような声が聞こえてくる。

 胸を貫かれて倒れたエルロイは、虚ろな目をしながら天井を見ていた。皮膚にはヒビがはいり、表面がボロボロに崩れ始めている。

 ぶつぶつと何かを呟いているが、声が小さすぎて聞き取れない。

 ロゼはおもむろに銀の大型拳銃を取り出すと、エルロイの頭に照準を合わせた。

「お、おい……?」

「このまま放っておいても滅びます。でも、放っておくわけにはいきません」

 刹那の刻(とき)も許さない。非情な判断だが、それが吸血鬼を狩るということだ。アルフォンスも頭では理解していたが、どこか納得の行かない顔をする。

 エルロイには色々と聞きたいことがあった。彼は出会った時から吸血鬼だったのか。なぜ今になってこんな事件を起こしたのか。なぜ――自分を恨んでいたのか。

 だが、吸血鬼である彼の存在は危険すぎた。もはや、この世に存在してはいけない。それは十分に分かっていた。だから、アルフォンスは口出ししなかった。

 しかし、ロゼはいつまで経っても引き金を引かなかった。

「……おかしい」

「どうした」

「おかしいんです」

「だから何が」

「一切感じないんです――匂いを」

「何の」

「“高位の吸血鬼(エルダーヴァンパイア)”の匂いです」

 冷静な彼女が、明らかに動揺している。瞳孔を開き、体を小刻みに震わせている。エルロイに“高位の吸血鬼”としての匂いを感じない。それがどういう意味を持つか。なら彼女は、誰の匂いを追ってここまで辿り着いたというのか――。

「今まで私は……大きな勘違いをしていたのかもしれません」

「どういうことだ?」

「もしかすると、“高位の吸血鬼”は――」

 

 ――別に、いるのかもしれません。

 

 刹那。漆黒の暗闇から、何かが途轍もない速さで放たれた。どす黒く濁った液体――血によって形成された、2本の直線。それが向かってくる。

 いち早くそれを察知したロゼは、咄嗟にアルフォンスを突き飛ばした。

 そして、槍のごとき先端を持つそれは、彼女の腹部を容赦なく貫く。

 

 どう、と地面に尻餅をつくアルフォンス。ついさっきまで、目の前で話をしていたロゼは血の海の中に倒れていた。彼女はピクリとも動かない。微動だにしていない。……なんだこれは?

 一切の状況が把握できず、彼は立ち上がることすらできなくなっていた。

 

「いや、まさかだな。2人まとめて楽に終わらせてやるつもりだったが」

 

 槍が飛び出てきた暗闇。その中から現れたのは、アルフォンスにとって最も親しく、馴染み深い、軍服の男――。

 

「おかげで死に損ねたな、アル?」

 

「……おじ、さん……?」

 

そして、決して信じたくはない人物だった。

 

第12回 高位の吸血鬼(エルダーヴァンパイア)

 

 帝国軍の中でも、帝都の治安維持を任された部隊。通称『ガラード隊』隊長を務める壮年の男ガラードは、アルフォンスの上司であり、また、両親を亡くした彼を引き取って育てた父親同然の男でもあった。

 最近、帝都を恐怖に陥れる『吸血鬼事件』の解決に尽力しつつも、その犯人への手がかりを掴めないでいることに、人知れず苦悩していたのも知っている。アルフォンスが吸血鬼事件を己の手で解決したいと願う理由の、もう一つがそれだ。

 そんな彼が、なぜこの仄暗い地下道にいるのか。

 今はエルロイの襲撃にあった宿酒場の指揮を執っているはずの彼が、何故。アルフォンスには理解できなかった。いや、理解したくなかった。

「まあ流石に混乱するか」

 ガラードはやれやれと言った表情で、しかし笑みを浮かべながら目を伏せ、頭を掻く。

 仕事中でもうっかり「おじさん」と呼んでしまうアルフォンスを諫める時のように。あくまで普段通りの雰囲気が、途轍もなく不気味だった。

 よく見るとその傍らには、虚ろな目をしたルッカが立っている。目の前で起こっている意味不明な事態に驚いている――わけではない。まったく反応を示さない。まるで、意思を失っているかのように。

「……『魅了』の、術……では、あなたが……」

 我に返って声のしたほうを見る――ロゼだ。あのどす黒い血液の槍を腹部に受け、倒れ伏したままの彼女が、声を絞り出していた。その様子を見れば、彼女が致命的なダメージを受けてしまっていることは明らかだった。

 ガラードは彼女が生きていたことに少しだけ驚いた様子を見せつつ、

「お初にお目にかかる、“吸血鬼狩り”のお嬢さん。私の名はガラード――君たちの追う“高位の吸血鬼”だ」

――そう、恭しく認めた。

 

「――たい、ちょう……」

 弱々しく声を上げながら、瀕死のエルロイがアルフォンスの横を這っていく。やがてガラードの足元にたどり着いた彼は、

「隊長、隊長……すみません、俺は……」そう、すがる様に手を伸ばす。

 ガラードはその手を取り、エルロイを中腰で抱き上げる。

「ああ、いいんだエルロイ。お前はよくやってくれた。忌まわしい”吸血鬼狩り”を帝都に誘き寄せてくれた。それだけで充分だ。期待通りだよ。やはりお前は見込んだ通りの男だ」

 労いの言葉を並べ立てるガラードの腕の中で、エルロイはかつてない安堵を浮かべる。

「――だからもう、用済みだ。ゆっくりお休み」

 唐突に温度を失ったガラードの言葉。次の瞬間、ガラードは口元をゆがませ――そこから見える獣のように尖った牙を、エルロイの首筋に突きたてた。

「あ、が、ぐああああああがががあ゛あ゛あ゛あ゛……!!」

 ――吸血だ。目の前でそれが行われるのを、アルフォンスは初めて目撃した。耳を塞ぎたくなるような絶叫とともに、エルロイの身体を流れていた血液が――数十人の生命を糧にしてきたそれが――ガラードの体へと取り込まれているのだ。

 エルロイの若々しかった肉体は急激に、枯れ木のように干からびていった。入れ代わりに、40代前後だったガラードの体が精気に満ちていくのが分かる。同時にその体から黒い煙があがり、彼の体を包んでいく。

 やがてエルロイの声は瞬く間にかすれ、聞こえなくなった。最後に――エルロイはただの砂と化して、墓所の湿った土の上に流れ落ちた。

 煙が晴れると、そこには軍服の代わりに黒衣の外套を纏ったガラードの姿があった。

 アルフォンスと同じ歳ほどの若々しい姿へと変貌した彼は、恍惚とした表情で、口の端から垂れた血液を舐め取る。そして、新たな体の感覚を確かめるように己の全身をじっくりと眺めていく。その様は、アルフォンスの知る彼ではなかった。

 伝承にある『吸血鬼』の姿そのもの――だった。

「ああ、甘美だ。十数年ぶりの人間の血液。やはり、いい。面倒な手間をかけて下ごしらえをした甲斐があった」

 満足そうにため息をつくガラードに、絶望的な顔を向けるアルフォンス。

「あなたが……エルロイを吸血鬼に変えたのか。あいつに人間の血を吸わせて…… それをまとめて奪うために……」

「人聞きが悪いな、アル。彼は進んで我が眷属となってくれたのだよ」

 そう言うと、ガラードは芝居がかった動作で胸に手を当て目を伏せる。

「エルロイは孤児だった。貧しく、誰よりも大きな孤独を抱えていた。私はそんな彼に剣の才能を見出して、軍に招きいれてやった。予想通り彼は、この私に強く依存してくるようになった」

 さながら本当の父親のようにね、と笑いながら語るガラード。その言葉の端々に、アルフォンスは凍えるような冷たさを覚える。

「彼は、そんな私に息子同然の扱いを受けていたお前を、いつしか疎ましく思うようになったのだろう。そして、どうにかその場所を勝ち取りたいと考えた。私はある日、そんな彼に正体を明かして仲間に誘った。彼は、喜んでそれを受けたよ。私を手伝うことで『アルフォンスより役に立つ』ことを証明しようとしたのだ」

 起き上がることもできないロゼは、ただ悔いていた。

 おそらく、エルロイが吸血鬼に変えられたその時に、ガラードの持つ力の一端が与えられた。その匂いを感じ取ったロゼは、彼こそが”高位の吸血鬼”だと勘違いした。そして、まんまとこの絶体絶命の状況を作り上げられてしまったのだ。

 アルフォンスは、エルロイの恨みを知ってショックを感じていた。それは傍から見ればあまりにも自分勝手な恨みだったが、アルフォンスは後悔した。自分がその気持ちに気づいていれば、彼は吸血鬼にならずに済んだかもしれないのだと。

 そして、ガラードこそが――裏から糸を引いてエルロイの想いを弄び、己の手を汚さずに多くの犠牲を出した真の黒幕だったのだと、認めざるを得なかった。

 部隊によって深夜の巡回が毎夜行われていたのに、事件を抑止できずにいたこと。彼自身が部隊を指揮していたのだから、それも当然の結果と言えた。

 その事実は、彼を父のように慕っていたアルフォンスの心に鈍く、鋭い痛みを与えた。

「ようやく私の“血への渇望”は満たされた。あとは、デザートか」

 虚ろなルッカを横目で見て、舌なめずりするガラード――。そのおぞましい言葉に肌を粟立たせるアルフォンス。「――その前に」そう言ってガラードは、唐突に左手を倒れたロゼに向ける。

「”吸血鬼狩り”には死んでもらわなくてはな」

 次の瞬間、掌から先ほどと同じ“血液の槍”が無数に放たれた。

 アルフォンスが声を上げる暇もなく――それらはロゼの全身を貫いた。

「うぁっ……!」

 彼女は倒れたまま、密かに銃口を定めていた銀の大型拳銃をとり落としていた。攻撃を受ける瞬間、彼女は全身の力を振り絞って身を翻していた。それが功を奏したか、なんとか即死だけは免れたらしい――だが、着実に“死”へと近づいていた。

「ハハ、流石にしぶといな。ならば――」

「やめろおおおおお!!」

 すぐさま次の一手に入ろうとしていたガラードに、アルフォンスは飛び起きて斬りかかる。袈裟切りに放たれた白銀の剣。それは、鈍い音を立てて止まってしまう。

「おじさんに手を上げるとは何事だ、アル」

 冗談めかして笑うガラードは、人差し指でアルフォンスの額を弾く。そこから想像を絶するすさまじい衝撃を受けて吹き飛び、もんどり打つアルフォンス。

 吸血鬼を滅ぼすための刃が、薄皮一枚も裂くことができなかった。エルロイを介して数十人の血液を、生命を取り込んだ“高位の吸血鬼”――。決して越えられることのない高い壁が聳えたのを、アルフォンスは感じた。

 絶望的な影を落とすアルフォンスに、吸血鬼は何か思いついたような顔をする。

「――ああそうだ。種明かしついでにいい事を教えてやろう。この場に生きて居合わせることができた褒美だ」

「何、を……」何とか膝を突いて立ち上がろうとするアルフォンスに、ガラードは下卑た笑みを浮かべて言った――

 

「お前の両親を殺したのは、私だ」

 

 さらなる衝撃を受けるアルフォンス。

 十数年前、辺境の村にある小さな家の中で、全身の血を奪われて死んだ父母。今なお鮮烈に彼の脳裏に刻まれたその光景が、一瞬にして蘇る。

 アルフォンスの反応を楽しむように、ガラードは続ける。

「当時、あの村には実際に吸血鬼が潜んでいたのだ。すなわち、この私がな。その存在に気づいたお前の父は、極秘裏にその正体を突き止めようとしていた」

 アルフォンスにとって初耳の事実だった。父が当時、自分と同じ事をしようとしていたのだ。

「彼は、優秀な軍人だった。あんな辺境にいるのが惜しいほどにな。だがいささか優秀すぎた。私の正体に気づく寸前まで辿りついてしまった。だから――殺してやったのだ、この手で。奴を手伝っていた妻もろとも」

 アルフォンスは立ち上がって攻撃を再開する。その言葉を振り払うかのように。

「誤算だったのはお前の存在だ、アル。私はその時、まだ子供だったお前も殺すはずだったのだ。私の正体を知った可能性がある者を生かしておくわけにはいかかった。だが、お前はその時、偶然家を離れてしまっていた」

 何度も繰り出される斬撃――白銀の刃が虚しく滑っていく。彼にはやはり、傷一つつけることはできない。ガラードは無視して話を続ける。

「あんな辺境で何度も表立った事件を起こすわけにはいかなかった。話に聞いていた“吸血鬼狩り”に嗅ぎ付けられる可能性があったからな。だから私は、お前を手元に置いて監視することにしたのだ」

 もし記憶の中にガラードの正体に通じるものがあったなら、今日までのどこかで殺されていた。それは、そういう意味だ。

 優しく、父のように接してくれた彼の姿は全て仮初だった――。今更ながら突きつけられた事実にアルフォンスの目尻が滲む。

「だが、それも終わりだ。アル、お前にはもう用はない」

 いままで攻撃を無視していたガラードが、一転反撃に出る。凄まじい拳の一撃がアルフォンスの右脇腹を抉り、そのまま吹き飛ばした。「ぐはっ……!」あばら骨が砕かれ、激しい痛みが広がる。

 だが、それでもアルフォンスは立ち上がった。血を吐きながら、ふらふらになりながらも、目の前の存在を絶対に許すわけにはいかなかった。

「虚勢を張っても無駄だ。おとなしく死ね」

 堰を切ったように、ガラードの猛攻が加えられる。軋むほどに握り締めた拳による連撃。吸血鬼の膂力を備えたそれは一撃一撃が鋼鉄の鉄球のごとき威力を持つ。それは今や防御すらできないアルフォンスの体中に浴びせられた。

 花が咲くかのように血飛沫が舞い、散っていく。

「……ア、ル……」意識すら朦朧とした様子のロゼが、自分の名を呼ぶのが聞こえた。

 ここで倒れれば、彼女は殺される。意思を奪われたルッカも食糧とされるだろう。そんなことをさせるわけにはいかない。倒れるわけには、死ぬわけには。

 強烈な打撃で骨を砕かれる痛みが体中を襲っていた。蓄積されていく“死”。そんな中、彼はゆっくりと剣を携え、残された力を込めて振り下ろした――。

 真っ向から向かってくる拳。鈍い金属音とともに、剣は真っ二つにされてしまう。加えられた衝撃によって剣先が弾き飛ばされ、アルフォンスの右の肩口を抉った。その勢いのまま、剣先は後方に回転しつつ弧を描き、倒れ伏したロゼのすぐそばに突き刺さる。

 その傷を負った瞬間、アルフォンスは自分の中の何かがぷつりと切れる音を聞いた。もはや、全ての力を使い果たした。折れた剣を握り締めることすらできず、脱力して膝から崩れていく。

 

 そんな中……アルフォンスは、目を伏せて過去の朧げな記憶を思い出していた。

 両親が殺された事件の少し前から、父の知り合いを名乗る女性がよく家を訪れていた。

 当時、父が家でやっていた仕事――今思えば、吸血鬼の調査のことだったのだろう――その邪魔にならないようにと、彼女は毎日のようにアルフォンスを遊びに連れ出していた。

 事件はそんなある日に起きた。あの時、家にいたなら自分も殺されていたのだろう。そして、彼女が父から離していてくれたからこそ、自分は今まで何も知らずにいられた。そのおかげで、今までガラードに殺されずに済んでいたのだ。

 両親の死があまりに強烈すぎたためか、彼女の記憶は今の今まで完全に忘れていた。あの女性は今、何をしているのだろう。どうか、無事でいてほしい――。

 灰色の土の上に、倒れ伏したアルフォンス。ガラードの嘲笑が聞こえる。

「さあ、アル。今こそ因縁に幕を下ろそう。父と母が、女神の元でお前を待っているぞ」

 吸血鬼の右手が手刀の構えを取る。アルフォンスの首を刎ねんがため、それは断頭台の刃の如く振り下ろされる――。

 

 ――あたりが真っ白な光に包まれる。

 同時に、空気が張り裂けるような音が聞こえた気がした。アルフォンスは自分がまだ生きていることを知ると、ゆっくりと瞼を上げる。

 

 手刀の中央に――巨大な穴が穿たれていた。手首を抱えてうろたえるガラード。その断面はちりちりと焦げ付いている。

「ば、馬鹿な――」

 彼の視線を追った先には――ロゼ。

 体中を穿たれ、死に直面していたはずの彼女が、硝煙の上がる白銀の大型拳銃を構えてそこに立っていた。

 

「その方には、もはや指一本触れさせません――」

 

 その瞳は、爛々とした真紅の輝きを讃えていた。

 

第13回 真祖

 

 ロゼは、死を覚悟していた。

 ガラードの“血の槍”で全身を射抜かれ、そのいくつかは内臓を深く傷つけている。既に治癒の法術を唱える力すら残されていなかった。

 “吸血鬼狩り”を生業としてきた以上、心のどこかで分かっていたことだ。自分はいつか戦いの中で死ぬ。それまでに、一体でも多くの吸血鬼を狩るだけだ。

 それが――彼女が心に課していた“贖罪”だ。

 だが、もう死は目の前だった。

 やれることはやり尽くした。それでもガラードは倒せなかった。

 このまま眠ってしまえば、そのまま永遠に目覚めることはないだろう。いっそ、その方が楽かもしれない。意識は、すでに失われかけていた。

 彼女が、ゆっくりと瞼を閉じかけたとき――ぼやけた視界の隅に何かが見えた。

 ――彼と協力を結んだ青年、アルフォンスは戦っていた。真正面から吸血鬼に挑み、一心不乱に剣を振っている。勝ち目などあるわけがなかった。それでも――。

 やがて、彼の最後の一撃が防がれ、叩き折られる白銀の剣。折れた剣先が倒れ伏すロゼの目の前まで飛んできて、湿った地面に突き刺さった。

 それはアルフォンスの血に濡れていた。

 どくん。

 ロゼは自分の鼓動の音を聞いた。その感覚は、彼女が昔に捨てたもの。いや――見ないようにしてきただけのものだ。

 まだ、死ぬわけにはいかない。アルフォンスは、自分のために絶対に死なないと言ってくれた。ならば自分も、覚悟を示さなければならない。

 ロゼは、自分の手が傷つくのも構わず、折れた切っ先を掴んだ。

 そして、刀身に流れるアルフォンスの血に、自らの――舌を、つけた。その瞬間、彼女の視界が真紅に覆われる。

 危険な賭けだった――あが、彼女の心は、先ほどとは違う覚悟に満ちていた。

 

                 ◇

 

「まさか、貴様は――!!」

 拳銃で大穴を穿たれた右手を庇いつつ、ガラードはその姿を睨みつけた。

 うすぼんやりと真紅の輝きに包まれた、“吸血鬼狩り”のロゼの姿を。

「改めて、名乗らせていただきます――

 私の名は、ローゼリア。忌まわしき吸血の一族、”真祖”の末裔です」

 倒れたままのアルフォンスは、傾いた視界に恭しくお辞儀をするその姿を見ていた。

 真祖。吸血鬼と呼ばれる一族の、正当な血統――彼女が言っていた言葉を思い出す。

 ロゼが拳銃と逆手に持っていたのは、白銀の剣の切っ先だ。そこについていたアルフォンスの血を嘗め――彼女は瀕死の状態から復活した。エルロイの血を取り込むことで、精気を漲らせたガラードのように。

 だが、ロゼのものはガラードのそれとは違う、神聖な儀式のように見えた。

 体が一切動かないせいか、アルフォンスは冷静に状況を受け入れていた。ロゼが、吸血鬼――その事実を、落ち着いた頭でただただ納得する。

「“真祖”の吸血鬼だと? 馬鹿な、そんなものが今の世に――」

「ええ、すでに失われました。自ら、滅びることを選んだのです。気づいてしまったから――人間の血を糧にしてまで、種を存続させることに意味はないと。私はその最後の一人です」

 瞑目して答えていたロゼは、続けて目を見開いて、凛とした表情でガラードを睨みつける。

「私は許しません。血への渇望に耐え切れず一族から出奔した”高位の吸血鬼(エルダーヴァンパイア)”を。欲望の赴くままに人間を襲い、一族の名を穢すあなた方を――!」

「――戯言を!!」

 叫ぶが早いか、ガラードは大穴を穿たれた右腕を突き出した。そこから、再び無数の“血の槍”が現れ、凄まじい速さでロゼに襲い掛かる。それが彼女の肉体を貫こうとした瞬間、ロゼは爆風とともに赤い霧となる。

 そして、ガラードの背後から瞬時に現れると、構えていた二丁拳銃から十数発もの弾丸を連射した。それらは彼女と同じ真紅の輝きを纏って、ガラードの全身を貫いていく。

「があああっ!」体中に受けた散弾銃のごとき衝撃で、前方に吹き飛ばされるガラード。彼がしばらく立ち上がれないことを確認すると、ロゼはしゃがみこんで、足元で動けなくなっているアルフォンスの頬を優しく撫でた。

「ありがとう、アル。あなたのおかげで覚悟が決まりました。……後で、色々と話がしたいです。少し、待っていて下さい」

 アルフォンスは、ロゼのその姿にかつての記憶の女性を見た。

 ――ああ、そうだったのか――彼には返事をする体力すら残っていなかった。代わりに心の中で彼女の背を押してやる。ロゼもそれを感じ取ったのか、こくりとうなずいて立ち上がり、再び凛とした表情でガラードを見やる。

 彼は全身に受けた傷を回復し始めていたが、それもようやくと言った様子だ。真祖の力を発揮したロゼの攻撃は、明らかなダメージを彼に与えていた。

「くっ……愚かな! 我々が、血液を糧として何が悪い! 他の命を犠牲に生を得ている人間と何が違う!?」

 その問いに、ロゼは静かに答える。

「――全てです。人知を超えた膂力を持ち、他者を意のままに操り、屍人を生み出す…… 存在の全てが自然の摂理を、社会を著しく乱します。私たちは、女神のご意思に背く存在なのです。だからこそ、ただのおとぎ話でなければならない――!」

 ロゼはその信念のもと、吸血鬼でありながら吸血鬼を狩る。自らの一族を否定し、滅ぼし、静かに忘れ去られていくことを願って。

 アルフォンスは必死で意識を繋ぎとめながら、ロゼを見つめる。

 同族にすら決して理解されることはない、彼女の理想――彼女の抱える孤独の正体を、彼はようやく理解できた気がしていた。

「小娘が、知ったふうな口を叩いてくれる……いいだろう!」

 歯噛みするガラードが虚空に手を伸ばすと、掌から立ち上ったどす黒い血液が、禍々しい剣の形を成した。

 さらに彼の身につける黒の外套が蠢き、蝙蝠の羽根となって左右に伸びる。それを羽ばたかせて中空に浮遊するガラード。

 虚ろに立ち尽くしていたルッカが、ふっと気を失ってその場に倒れる。彼女にかけていた術の力までも、次の攻撃へと注がれているのだった。

「死にぞこないの“真祖”――その古びた血、この手で絶ち切ってくれる!」

 ロゼもまた、それに呼応するように法剣を引き抜いた。真紅の輝きを纏い、紫紺の外套が蝙蝠の羽へと姿を変える。

「“高位の吸血鬼”……その名を今ここで返上して頂きます」

 深紅の瞳でガラードを捉えるロゼ。

 

 互いに剣を構え、空中で対峙する2人の吸血鬼――。凄まじい力の流れが地下墓所を支配し、刃物のような殺気がぶつかり合う。その様子を、仰向けに倒れたまま見守るアルフォンス。

 

 次の瞬間、2つの影は雷鳴の速度で交錯した。

 

 一瞬で立ち位置が入れ代わる、ロゼとガラード。

 互いが持つ剣は、それぞれ振りぬかれた状態になっていた。ロゼの法剣に刀身は見当たらない。そのかわりに、鉄線が限界まで伸びている。

 

「――ハハハハッ……」

 先に声をあげたのは、ガラード。その体に次々と直線が走っていく。それは、斬られたことすら忘れていた肉体に少し遅れて刻まれた、亀裂。あの刹那、法剣から分裂した無数の刃が、彼の体を幾度となく通過していたのだった。

 ロゼが振り向く。スナップを利かせて鉄線をしならせると、金属がぶつかり合う音と共に、規則正しく法剣の刀身を形成していく。

 

「――さようなら。いずれ冥府でお会いしましょう」

 

「ハハハハハハハハハハハッ……!!」

 

 法剣の刀身が、完全に剣の形を成した時――

 冷酷なる“高位の吸血鬼”の肉体は、足元から崩れおちていった。

 

第14回 朝日の向こうへ

 

 アルフォンスは、静かになった地下墓所の中央で目を覚ました。

 最初に見えたのは、自分を覗き込むロゼの優しい微笑み。

 彼女からはすでに真紅の輝きは失せていた。

 どうやら法術による治癒をやってくれていたらしい。さすがに全快とまではいかなかったが、なんとか立ち上がることはできそうだ。

 隣には、ルッカが寝かされていた。外傷はなかったものの、エルロイに誘拐され、ガラードによって術をかけられた彼女も著しく体力を消耗していた。

「……おじさんは、どうなった?」

 アルフォンスの意識はロゼとガラードが交錯したあたりで途絶えていた。よろよろと立ち上がって辺りを見回す彼に、ロゼは顎で一点を指し示す。

 少し離れたところに、胸から上だけとなったガラードが倒れていた。

「アル、か――」彼はまだ生きていた。

 凄まじい生命力を持つ吸血鬼だったが、こんな姿でなお生き永らえていることに、アルフォンスは憐れみを感じずにはいられない。

「もはや助かることは万に一つもありませんが」とロゼは断じる。

 そして、おもむろに拳銃に弾をこめると、ガラードの眉間に銃口を向けた。どうやら、アルフォンスが目覚めるまでは止めを刺さないつもりだったらしい。

「あなたは見届けるべきだと思いましたから」

「そう、か……」

 引き金に徐々に力が込められる。

 ガラードは、観念した様子で静かに目を伏せる。

 アルフォンスは――引き金を引くロゼの指を制止した。 

 少しだけ驚いたロゼを見て、彼は懐から、最初にロゼに渡された銀の短剣を取り出した。

「俺に、やらせてほしい」

「……復讐は己の手で、というわけか」

 嘲るように言ったのは、ガラードだ。

「愚かだな、アル。わざわざ自分の手を汚すこともあるまい。人間とは実に下らんことに拘る。だからこそ、御しやすい」

「黙りなさい」

 なおも高慢な態度を崩さないガラードに、改めて銃口を向けるロゼ。アルフォンスは再びそれを止めると、静かに首を振って言う。

「――俺は、あなたを父のように思っていた。暗い思惑があったとはいえ、それは決して変わらない。感謝すらしている、今も」

 それを聞いて、一瞬驚いた顔を見せるガラード。隣にいたロゼも同様だ。

「だから、これは――儀式なんだ。あなたと決別して、明日を見るための」

「クク……カハハハハハハハ……!!」

 ガラードは笑った。もはや、笑うことしかしなかった。

 アルフォンスは、そんな彼を見て、少し寂しそうな顔をしてから――短剣を、静かに振り下ろした。ロゼは、その様子をじっと見守っていた。

 

                  ◇

 

 ブーツの足音だけが、静寂な空間に響く。

 ロゼが先導する形で、薄暗い地下道の道を逆に辿っていくアルフォンス。彼の背には、いまだ気を失ったままのルッカが背負われている。

 道中、屍人と化していた遺体を見かけるたびにアルフォンスは立ち止まり、瞑目してその冥福を祈った。ロゼによれば、この後教会の手が入って彼らは手厚く葬られることになるとのことだ。吸血鬼や屍人という存在は決して公になることはなく、今回の事件も闇に葬られていくという。

 

 松明のあった通路を抜け、外の光が差し込んできた辺りでロゼが立ち止まる。後ろについていたアルフォンスはぶつかりそうになってしまう。

「ととっ……どうした?」そう言ってルッカを背負い直す。

「――もう一つ、あなたに言っていないことがあるのです」

 振り向いたロゼは、申し訳なさそうな表情をしていた。少しだけ間があいたが、ロゼは中々話題を切り出さなかった。

 だから、アルフォンスは自らそれを引き継いだ。

「君が過去、犠牲にしてしまった協力者――それが、俺の両親だったって話か?」

「――気づいて、いたのですか……」

 

 ロゼも、ガラードの正体が分かるまでは気づかずにいたが――

 アルフォンスの両親の事件は、今回の事件にあまりに密接に関係していた。

 十数年前、アルフォンスの父は“吸血鬼狩り”ロゼと偶然に出会っていた。そして、吸血鬼を追う彼女の事情を知り、ロゼに協力することにしたのだ。かれは、あと一歩で吸血鬼の正体――すなわち、彼の友人であったガラードに辿りつくところまで調査を進めたが……

 結果、その寸前にガラードに察知されてしまい、ロゼに詳しい情報を伝える間もなく殺されてしまったのだった。

「……でも、どうしてそれが私だと感づかれたのですか? 他に”吸血鬼狩り”がいる可能性もあったでしょう」

「さっき、思い出したんだ――俺と君はその時、出会っていた」

 アルフォンスの父は家族に危険が及ぶ可能性を常に心配していた。そこで、吸血鬼の調査中はロゼに我が子の警護を頼んでいたのだ。

 幼き日のアルフォンスを、度々遊びに連れ出していた記憶の女性――それこそが、ロゼだったことをアルフォンスはようやく思い出した。彼女も、それを認めて静かに肯定する。

「……元はといえば私が巻き込んでしまったのです。本当なら私は一人で戦わなくてはなりませんでした。なのに、私はあなたの父上の申し出を断りませんでした。それが最悪の結果を招いたというのに、今回のあなたの申し出も断りきれませんでした」

 ロゼは何十年にも渡って、同族との孤独な戦いに身を投じてきた。彼女はいつしか、無意識にそこから救われたいと思うようになっていたのだろう。

 だから、アルフォンスや彼の父が協力を申し出た時、彼女は救いの手を差し伸べられたように感じて、断れなかったのだ。

「血も……死ぬまで飲まないつもりでした。自分が、彼ら(ガラード)のような怪物だと認めたくなかったんです。年々力は弱っていきますが、それでも私は――」

 ロゼは自分の掌を忌まわしげに眺めながら、自嘲する。

「……ふふ、その禁を自分で破ってしまうなんて、皮肉なものです。結局私も、ただの“吸血鬼”でしかないのかもしれません……」

 彼女の抱える“孤独”をアルフォンスは痛いほど理解していた。だから――「気にするな」と、微笑みながら答えた。

「俺を、助けてくれるためだったんだろう? その時点で君は、他の吸血鬼とは違うはずだ。死んだ父さんも母さんも、君を恨んだりはしない。君のおかげで、俺は殺されずに済んだ。君がいたから、今回の事件を解決できたんだ」

「――――――」

「だから、礼を言わせてくれ――ありがとう」

 ロゼは、何も返事をせずにアルフォンスから顔を背けた。彼女は、吸血鬼である自分を初めて受け入れることができた気がした。彼女の心に、棘のように刺さっていたものがゆっくりと溶けていく。

 アルフォンスは、静かに肩を震わせる彼女の顔を見ないように、前を見たまま歩みを進めた。

 

                  ◇

 

 それから2人はしばらく無言で歩いた。地下道を照らす光が徐々に強まり、やがて、ようやくヘイムダル港に続く出入り口から外に出た。

 不気味な赤い月はすでにない。代わりに眩いほどに白い朝日が顔を出していた。

「――それでは、私は、これで」

 ロゼは小さく会釈をする。吸血鬼の影は帝都から消え、彼女の任務は完了した。早すぎる別れの挨拶だったが、アルフォンスは「そうか」と頷いて答えた。「次は、どこに行くんだ?」

「分かりません」小さく首を振るロゼ。

 再び吸血鬼の匂いを追って、何処かへ。そして、新たな死闘へと身を投じていくのだろう。それが吸血鬼狩りとしての、“真祖”としての彼女の使命だ。

 

「全部終わったら……また、来るといい」

「えっ」

 

 すでに歩き出していたロゼが、アルフォンスの言葉に振り向く。

 

「俺はここで待っている」

 

 どれほどの時間を要する使命であるかは、想像もつかない。だがアルフォンスはその言葉をかけた――“ここに、帰る場所がある”と。「彼女を孤独にはさせない」――その言葉に偽りはないと。

 

「――はい――!」

 

 ロゼは、湧き上がる嬉しさを隠すこともせず、微笑んでそれに答えた。そして、そのまま陽光の中へと歩き出した。もう、振り返らなかった。

 アルフォンスの背中で、ルッカはいつの間にか目を覚ましていた。彼女は少しだけ嫉妬心を覚えながらも、2人の別れを邪魔しないように寝たふりを続けていた。

 

――こうして、帝都を恐怖に陥れた『吸血鬼事件』は、人知れず静かに幕を閉じたのだった。

 

犯人が捕まえられることもなく、ただ“終わった”この事件は、やがて人々の間から忘れ去られていくのだろう。都市伝説じみた、ある未解決事件の記録として。

 

だが、アルフォンスは決して忘れないだろう。いくつもの大切なものが失われたことを。その代わりに、新たな絆を手にしたことを。

 

そして、彼は強く願った。

深い孤独と思い使命を背負った吸血鬼の彼女に、いつの日か安らぎがもたらされんことを。

 

「――朝は必ず来る。きっと、君にも――」

 

 ロゼが真っ白な朝日の中に消えて行くのを、アルフォンスは最後まで、静かに見送っていた。

 

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